自然界のホメオスタシスと、自分のホメオスタシスを同調させる。
神(しん)は全てのものの根元にあるものであり、たましいとも精霊とも言われ、霊魂についていう。
精(せい)はその具現化されたものである。
精神は英語ではスピリット。
すなわち精神とは、人間の持つ心に根源から作用し、その心を発露させるものである。
その力を精神力などと呼ぶ。
そして、その根源にあるものが自然界の神(しん)なのか、又、人間の後天的な自我による神(しん)かによって大きく変わってくる。
その精神によって生きているものが、その世界で精神活動を行うのであって、その精神活動に基づくあらゆる行為は、自然界とは同一でないときには、自然界のホメオスタシスによって違和とされる。
それが苦悩であったり、病気であったり、又、精神活動の停止や崩壊や異常等あらゆる違和的状態を自然界から受けることになる。
その自然界のホメオスタシスと、自分のホメオスタシスを合致調整させる技術は、自然の中で多く遊ぶ子供達には全く必要ないが、社会の中で翻弄され、その恒常性を見失う現代人にとっては重要である。
なぜ、人は自然の中にいると落ち着くのか、なぜ動物はかわいいのかよく考えてみればわかる。
動物は、自然界のホメオスタシスとあまり離れていないからである。又、自然は全くそのホメオスタシスに同調しているからである。だから自然と呼ばれる。
しかし、我々人間は、大きくそれをずれているので、それも、日常生活の中でそれを維持する必要がある。
それは、座禅をしたり、朝の体操、音楽を聴いて自然界のリズムと同調したりするのもいいだろうが、肉体を持つ人間の逃れられない宿命は、肉体とともに人生を過ごすことにある。その肉体を動かしながら、生き抜くところにある。その肉体とともに動きながら、ホメオスタシスを維持する能力が必要になる。動物ならば、自然の中で行動するので全くその維持には問題は起こらない。
自然界のホメオスタシスから外れた精神がこの社会を構成し、私たちはこの社会で生きている。
この社会がいずれ自然界のホメオスタシスと一致するまで、人類の存続は保証されないが、少なくとも、だれかが、自然界の精神を持って、人間社会全体の精神を自然界の精神に戻すことを促さなければならない。
そして、その人間は自然界の精神で生き、誰もがうらやむ幸福で楽しい人生を歩む必要がある。
自然界の法則は無であり、その無が生み出した陰と陽すなわち、空と有で説明できる。
驚くほどの精度で古代のインドによって発祥した0の概念は、唯識論により、般若心経を生み出した。その中にだいたいの事は書かれている。その唯識論や般若心経は言葉である。
その言葉が、自分の体が感じる健康観や感受により、感じた自然とのホメオスタシスの一致によって、理解できたときこそが、その自然界の法則がわかり始めて時である。
そしてそれは、その繰り返しを社会の中で行っていくことで、維持する技術を持つことができ、その技術によって維持したホメオスタシスで、苦悩が無くなり、健康になると、その理解が深まり、もっと深い根源的な真理にまで到達するのである。
それが0である。始まりの前である。