仏教では、諦めるとは、真理をあきらかにすることです。
四諦、諦観、諦念などがあります。
しかし諦めるとは、何かをしようとして、途中で諦めてしまう?
最初にしようとしたことを、途中で何かを諦めていないから、最初にしようとしたことを諦めた。
実際は諦めたように見えるが,本当は諦めていない。途中で諦めていない。
諦めるとは、明らかになること。
明らかになっていないのに、諦めるとは言えない。
明らかになるとは真理のことであり、無常のものではない。
無常のものは移り変わるので、明らかにならない。
諸行無常である。
だから何を明らかにするか?
それが問題である。
すぐに諦める子だとかよく言われる。すぐに諦めるのは良くないよと一概に子供に言う。
その子が何かを明らかにしてそれが、その子が明らかにしたことなら、その子は何かを見つけようとしたのであるから、諦めようとした行為は素晴らしいことである。
何も諦めないで諦める。
諦めないとは、条件である。ある条件下にあるから諦めた。
これは諦めていない。
条件に固執するから,やめただけである。
条件を諦めきれないからやめた。
これを諦めたという。そうではない。
諦めるとは、明らかになったことがあるから諦めたのであり、条件が諸行無常だと知れば、やめることもない。
条件に固執して、縛られる、諦めきれないからやめる。
諦めたという人は、諦めていない人でもある。
また諦めたという人は,諦めた人である。
このどちらも矛盾しながら存在する。
諦めるという言葉も、ここで空であることがはっきりするのである。
すぐに諦める子。・・・ほめ言葉になる。すぐに真理(ありのままのあたりまえ)に気づく子である。
空の中には何が入っているか?よくその色を観自在するのが良い。