やくみつる氏 VS 史郎氏

古い話ですが、やくみつる氏 VS 史郎氏のテレビバトル(スーパーモーニング)です。

http://www.youtube.com/watch?v=IFO7ybH2_fc

あのテレビ討論を見て、やくみつる氏は、亀田史郎氏(以下、単に「史郎氏」といいます。)と世間の親たちに、子供たちの純粋で自然な成長について考えてほしいという情熱を、何よりも強く持っていると感じました。
テレビ討論は中途半端な状況で終わりましたが、やくみつる氏は、この熱が冷める前に、明確に史郎氏の化けの皮をはがすことをあきらめていないはずです。
最も大切なことは、是非を論じるのではなく、誰もが自分のスタイルや価値観について考えてみることです。その考えることから逃げたり、自分の欲求を満足する為、また保身の為に、人の指摘や非難に対し脅したり圧力を加え弾圧しようとすることに対しては、立ち向かわなくてはなりません。親が、子供たちの愛情を利用し保護欲求を脅かすことで、自己の欲求や都合を満足させたり、自己顕示欲にかられて強迫観念から逃れたりしているのです。このようなことは、多くの家庭の中でも現在繰り広げられているのです。
この史郎氏も、あのホリエモンの父も同じ構図です。このように、子供たちの心は偏り壊れ、抑圧された中で、自然で自由な成長を妨げられ大人になっていくのです。

今、多くの子供たちは、親に対する愛情と、親への保護欲求を利用され、親たちの欲求不満の解消や自己顕示欲の満足の為、また、強迫観念から逃れる為の道具として扱われています。そのような中で、社会問題とも言える子供たちの心の問題が深刻化しています。

このような状況の中、ホリエモンとその父親の関係も同じでしたが、今回の史郎氏のように、自分の息子を単に自分の自己顕示欲などの欲求不満を満足させる為のえさ、そして、強迫観念という不安から逃げる為の道具として利用しているスタイルが正当化され、そのような親たちに免罪符を与えようとしていることに、私たちは大きな危険性を感じていました。

私は、やくみつる氏と史郎氏のテレビ討論を見た時、息子たちの純粋な心を食い物にしている史郎氏が、息子たちを利用して当たり前のように、世間に対しこれが俺たちのスタイルだと言ってマスコミに登場し、多くの日本中の親たちに、このようなスタイルがいかにも正当性があり立派な行為であるとアピールしていることに対して、やくみつる氏は、世間がとんでもない錯覚を起こす危険性があることに危機感を覚え、持ち前の情熱から、とてつもない勇気を持って果敢に阻止しようと、その父の本性を暴こうとして、あのような行動をしたものだと思いました。

やくみつる氏の突飛な行動は、史郎氏の本性を発露させるには十分な試みだったのですが、惜しくも、ガッツ石松氏はそのやくみつる氏の心情を知ること無く、むしろ父に失礼であるということでその行為を否定したため、やくみつる氏も十分な反論ができず、結果的に史郎氏の歪んだ欲望や不安の全てを暴露するには中途半端な内容に終わってしまいました。

それどころか、逆にやく氏の方が史郎氏からとんでもない説教をされるはめになってしまったのです。

史郎氏は、自分の満たされなかった欲求を満たす為に、幼き息子たちの心を餌食にしてふくれあがった怪物と言っても良いでしょう。生まれた子供は両親を無条件に愛すのです。そして保護欲求という本能のもとに、親に従います。それを知ってか知らずか、史郎氏は、自己の欲求と保身の為に子供をコントロールし、自らの心を安定させるのです。子供が自分の意に添わない行為をした時は、子供の愛と生存本能を利用して、力の強い大人の恐怖を巧みに組み合わせて操作します。もちろん意図的ではないかもしれませんが、多くの親たちもそうであるのが今の世の中の現状です。誰かが史郎氏の本性を引き出し、彼自身に知らせる必要があります。

社会に影響力の強いマスコミでの露出では、システムが健康な状態であれば、俗にいう「ホメオスタシス」(恒常性維持機能)が働きます。

今、四権分立と言われている中の一つであるマスコミは、最も大切な意識調整機関であり、社会のホメオスタシスです。大衆の欲求は自然な自己調整機能です。

やく氏と史郎氏の討論に大衆は大いに注目していました。ここで、やく氏はマスコミの一員としてその役割を、意識ではなく情熱を持って担うものと信じています。

 

“やくみつる氏 VS 史郎氏” への4件の返信

  1. テレビ討論の分析と指摘

     やくみつる氏の勇気ある行為で、史郎氏の本性は暴露され、それをスタイルだとして正当化しようとした卑怯な行為は番組の映像からして明らかです。
     このことを明確に史郎氏に問いかけ、純粋な親の愛で多くのことを受け入れることの大切さを訴えることで、あの純粋な息子たちが、史郎氏のおもちゃから解放され、自然におおらかに育っていくことについて、考えてもらわなくてはなりません。
     その史郎氏の化けの皮をはがし、息子たちが強力な親の洗脳から解放され、自立して自由になれることで、よりおおらかな個性あるボクサーとして活躍することを願うばかりです。

  2. ■史郎氏は、息子たちを、自分の満たされなかった自己顕示欲を満たす道具として利用している。

     テレビ討論を見ていると、史郎氏の自己顕示欲によって、単にチャンピオンという結果が欲しかっただけで、その結果が全てであり、それについて一切周りは意見を言うなという姿勢が見える。息子たちにも,目的の為なら手段を選ぶな、人に迷惑をかけなければ(迷惑も史郎氏の価値基準によるのだが)何をしても良いという、まるでホリエモンのような価値観を持って、その価値観を植え付けて操作しているのである。この行為は、一見成功術のように見えるが、家族愛という素晴らしい関係を道具に使って、息子たちの愛を利用している最低の行為であり、息子たちの個性や、自由で自然な心を破壊し、自分の操作しやすいロボットとして完成させたに過ぎない。ホリエモンは金信者、亀田はナンバーワン信者と言っても良いでしょう。そして、その為に努力したのだからというのは、人を共感させ、だます為に使用する定型句である。

     テレビ映像で史郎氏は、「俺もがんばってきたんや」「一緒にやってきたんや」「苦労したんや」などと発言したことにそれは現れている。

     ガッツ氏が「あなたが出ちゃだめ」と史郎氏に言った時、史郎氏はガッツ氏に食ってかかったのも、自己顕示欲を脅かされる恐怖からである。

     又、チャンピオンベルトの返還について話が及ぶと、史郎氏は「それは俺が決めることで、ガッツさんが決めることではない」と興奮して本音が出まくりであるが、それは史郎氏が決めることではなく息子が決めることである。と言ってあげたい。

  3. 史郎氏は、息子がチャンピオンになったことで自己顕示欲がほぼ満足したが、それを失いたくない為、守ることに必死である。そこで、息子たちのへ愛と家族愛という詭弁を利用して発言しているのだが、それに違和感を感じたものたちが指摘すると、著しい強迫観念にかられ、恫喝や脅しを用いてその意見を押さえ込もうとしている。その際も、息子たちの親への愛から生まれでる家族団結的努力や、保護欲求で型にはめられた息子たちの価値観を利用してでも、手に入れた自己顕示欲の満足を手放さないようにしている。それは、自分自身の存在が自己顕示欲で支えられている為、全生命をかけて守っている。

  4.  テレビ討論を見ていると、史郎氏は話しに来たと行っているが、明らかに最初から戦闘態勢である。しかし、それは討論と考えれば、意見を述べ合う場としてボクシングと同じで意見の戦いである。そして、討論の判定は国民がするか、どちらかが意見に同意するだけであり、何らボクシングと変わりはないのでそれは全然かまわない。
     史郎氏の挑発も大したものである。やく氏の記事を読んできているのにも関わらず、「あんた」と呼んだことを指摘され「名前ぶら下げときいな」の返答には恐れ入る。その後はおまえ呼ばわり、最後にはやくさん、と状況に応じてカメレオンのように七変化である。
     しかし、やくみつる氏が、史郎氏に本音を出させる為の挑発というパフォーマンスで挑んだことに、史郎氏は、自己顕示欲を守る為の感情的な行為で対抗し、恫喝や卑怯な行為でその意見を押さえ込み、また逃げようとしているだけである。そのことははっきりと討論の中に現れている。
     また、史郎氏は腹が立ってきたら「戦うんか戦うんか俺と。」とやく氏を恫喝したが、そのとおり戦うのであり、やく氏は意見の討論をしかけているのである。しかしその言論を抑圧する為に史郎氏は暴力をちらつかせる。とんでもない卑怯者である。まるでボクシングの場に機関銃を持って現れるようなもので、負けそうになると表で打ち合いしようかと言っているようなものである。これは、言論の場、討論の場では絶対に許されない。
     もちろん、やく氏は機関銃を持ってないし、打ち合いじゃなくて討論だから「そんなことやらないよ」というのは言うまでもない。
     そこで、史郎氏はやく氏に「ほんなら表出て話したろ」とは、大阪では表に出て腕づくでけんかしようかと言ったことだが、史郎氏はやく氏と腕づくで負ける訳が無いのは一番自分が知っている。そして、やく氏がそれに乗ってこないのも知っている。さらに周りの人が止めることを十分承知していたことは誰が考えても明らかである。そこで、やく氏にけんかしようかということは、やく氏の言っていることに真っ向から向かい合うことから逃げる為に脅かしたに過ぎない。
     真っ向から向かい合うと、史郎氏は自分の中の本心を無意識か意識かは知らないが、もちろん分かっているので、あまりにも不快で強迫観念にかられるから怒鳴るのである。驚くほど卑怯者である。その後には「お前これで済む思とったらあかんど」といかにも脅迫に取れる言葉を投げかける等は度が過ぎた卑怯者である。
     例を挙げよう。私が誰かと殴り合いのけんかしている時に、どこかの少年に、「話し合えば分かるのにおじちゃんは馬鹿だね」と言われたとしよう。そして少年から執拗に馬鹿さ加減を説明され「バーカバーカなぜ叩くの」と言われたとしよう。そこで私は「なんやおまえおじちゃんとけんかするのかほんなら表にでえや」と言って、子供の意見を封じているのと同じで、これは最低の卑怯者である。
     このように、史郎氏は自分の息子たちにもそうであったはずである。息子たちは父を愛し、その保護に守られているから逃れようがない。史郎氏は、それを今も考えてみること無く、やく氏にも同じようなことをして当たり前の顔をしている事自体、それは間違いないことがよく分かる。例えば、「ボクシングをやめるなら家を放り出す」とか、「亀田家は食べていけない」などと幼い息子に言うのも全くそれと同じであり、史郎氏はもっとも卑劣で、父親や家族の愛をちらつかせて子供の純粋な家族愛を利用しているのである。
     討論とは意見の戦いであり、挑発もあり得る。ところが史郎氏はやく氏の挑発に対し、「話し合う為に来とるんや、俺と戦うんか」と述べ相手の意見を封じようとすることは、息子たちを自分の道具として利用している自分の本性を必死に隠そうとして、真っ向からの討論から逃げる為の手段としているだけである。討論内容全てに渡ってそうである。自分の自己顕示欲から、息子がチャンピオンになって喜んでいると言うことに著しい後ろめたさと、それを非難されることに恐怖に近い不安感を感じている。ガッツ氏との会話の中にもそれが現れ、相手の揚げ足を取ることだけに全神経を集中し、最後にはやく氏をボクシングの敵にしようとしたり、ガッツ氏のチャンピオンということだけで仲間にしてしまおうとする卑劣な行為はその後ろめたさと、恐怖心を表しているに過ぎない。これ以上の自分への意見を封じ込める為の、やく氏への言動「お前これで済むおもてたらあかんぞ」「あんたは俺許さんから」などのように凄まじいものである。
     それなら、私たちも言いたい、「史郎氏、これで済むおもてたらあかんぞ、もっと話し合おう。そしてあんたは俺許さんからな、このまま本性を出さず息子と世間をだまし続けることは許さんからな」と言いたい。体力や権力、圧力等を利用して、自己の利益や保身だけの為に、相手を押さえ込もうとする行為は卑劣である。討論においても、私の言うことを聞かなければ、夜道は歩けないぞと言われると、普通のものはものが言えなくなる。そこには、話し合いから逃げたいと言う卑怯な心理が働いているに過ぎない、このような卑怯者は腕力や権力を鍛え、恫喝の術を著しくうまく備えているから厄介である。

     ガッツ氏に対しても、国民の大多数が相手が勝っていたと評論を述べたことに対して、職業として誠実に意見を述べているだけなのに、史郎氏は、まるでガッツ氏が亀田興毅の努力を否定しているように話を差し替えてまでも、そのチャンピオンという結果に対して文句を言うなと言う策を取ったが、これには誰もだまされない。これを「いちゃもん」と言う。「いちゃもん」も相手の意見を抑え込む高等戦術である。

     又、史郎氏はガッツ氏に、ガッツ氏がそこに座れているのは、世界チャンピオンになったからだろう、だからチャンピオンらしく、世界チャンピオンになったものに、文句を付けるのはおかしい、チャンピオンと言う結果の恩恵を受けているのだから、チャンピオンに文句をつけるなと言っている、とんでもない意見封じである。これは、この後、国民に対しても、日本人がチャンピオンになって喜んでいるんやろ、だから文句を言うな。息子にも、お前がチャンピオンになれたのも家族のおかげや、だから俺のやり方に文句を言うな、そして今までのことも全て、今後も全てといいながら、新たな武器を手に入れたにすぎない。このような方法で、これからも息子や周辺を威嚇していくのだろう。
     史郎氏は、非難するもの全てに対し、興毅ががんばったことに文句を言っている、そのがんばりを否定するのかと述べていたが、誰も否定などしていないのに、それが自分にとって一番都合のいい場所であるから、すべてを無理矢理そこへ持っていこうとする方法である。これも指摘しなければいけない。いかに、本質から逃げようとしているのか、ガッツ氏との討論からもはっきりする。

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