世界とは元々は仏教の用語である。
しかしながら、時間と空間を認識しているのも自己であるから、この自己観念を世界観という。
現実的に自分が認識している空間と時間が、実際の真実の世界(観念のない)と違うのは言うまでもない。
何を言いたいかというと。人にはそれぞれ世界がある。
現実世界では、人と人や、国と国などが世界観を持ち、争ったり、話し合ったりしている。
ある国が、ある国を気に入らないからとなると戦争になることがあるが、もしも、ある国が世界を支配してたなら、その国を抹殺することになる。
アメリカが、やや支配者になろうとしているが、まだ世界の支配者はいない。
例えば、一つの国に支配者がいれば、その支配者は気にいらないものを抹殺できる。
世界とはそういうものなのである。
人間は思考の中で世界を造り上げることができる。しかし、他人や環境の世界はつながっているので、その世界から自分の思考世界を切り離すことはできない。
もし切り離したいなら、一切の認識を失うこと。すなわち、気を失うか死ぬことである。
自分の気に入らない世界が押し寄せてくることが極端に達すると、人はそうする。
また、気に入らないものが、ある特定のものであれば、その世界を消滅させる。殺したり、壊したりである。
無視しても、逃げてもその世界は存在するからである。目に見えないから、聞こえないからではなく、認識として生存している世界に存在する。
従って、その気にいら無いものを消滅させるか、自分が消滅するかしかない。
以上が、自己レベルの世界である。
ヒトラーがユダヤの人たちを抹殺したのも同じことである。
現実世界とは、自らが認識できる世界であるから、宇宙の果てまでを世界だと認識していれば、宇宙の法則で何らかの意思があるとすれば、その法則という支配により地球は抹殺されると観念を持つのである。
自然が世界であると考える道教やアミニズム、日本の神道などの世界からみれば、自然の法則が支配であるからそれに反すれば抹殺されるとする。それが世界である。
宗教が世界観であれば、その宗教の支配する観念に反するものを抹殺しようとすれば、いわば、宗教の世界から飛び出して、現実世界、例えば社会に影響を与えようとするものであるから、そのものは宗教世界に生きているのではなく、現実世界に生きているのである。
ヨハネパウロ2世が宗教の枠を越えて、宗教世界で対話を重ねて、その宗教世界の平和を望んだが、現実世界の魔の手が度々及んだのも、キリスト教がすでに宗教世界ではなく現実世界にあるものを物語っている。
思考世界が自らの思考の中だけに存在する場合は、その思考の中だけで、世界は構成される。しかし、その思考から飛び出して現実世界にはみ出してくると、現実世界になる。
そこで人は思考を飛び出て、人を傷つけたり、また、何かを壊したり、愛でたり等々のあらゆる行為を行うのである。
有名な科学者の武田邦彦先生(名古屋大学)は、科学の世界において、大いに活躍している。しかし、現実世界はそれを気に入らないとして、人格攻撃を始め、恐ろしい中傷を行っている。しかし武田先生はびくともしない。なぜなら、武田先生は科学においては科学の世界から出て行かないからである。であるから、いくらでも科学についての弁論や議論、否定は受け付けるし、また人格攻撃など、科学の世界には関係ないことであるから、まっこうからその人格攻撃に対しても科学的に対応する。人格攻撃は自由にどうぞ、その世界で対応しますとして、凛としている。これが世界である。そして彼は支配者ではないことも知っている。
インターネットの世界は、自分のホームだけである。
その世界はいつもインターネット全体とつながっている。その中で気にいらないものがいれば、その世界から抹殺するのはいとも簡単である。サイトを見たり、コメントさせないようにすれば良い。またはインターネットをやめる。自分のホームからは消える。この自分のホームが、すなわちその人のインターネットにおける認識する世界である。そして、支配者である。
もちろんインターネットは社会であるから,インターネット機構が支配者として決めたルールがあり、それに反することはできない。しかし、ホームという自治を任されているものは、そのホームの支配者であり、唯一の世界である。インターネット機構は自然の法則、ホームは現実世界と考えればわかりやすいと思う。
現実社会なら、気に入らない国は原爆を落として抹殺。殺してしまって抹殺。または自殺することで気に入らないものを消滅させることができるのと同じである。
空気があり人間が住める地球の時空のように、インターネットは文字があり表現できることが、このインターネット上での時空である。
インターネットも自分の世界からその存在を抹消する手段を与えられている。
人間も武器で人を殺す手段を与えられている。
それを使うことも自由であるが、言論の自由が日本国憲法にあるように、言論が気に入らないからと抹殺された人たちもいることを忘れてはならない。
私は思う。
たとえ、インターネットのような文字表現だけの世界であったとしても,参加している人は皆この世界に生きている。
この世界で、私にどのような言葉を投げかけても、非難や中傷でも、何でも全てはこの世界において自由である。この世界のことは、この世界を越えて殴りに行くなどはあり得ない。
社会で殴りに来られたら、警察に通報する。または自らの社会性で身を守る。
空気を吸いながら。・・・・