免罪符
16世紀、カトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書を贖宥状(しょくゆうじょう)といい、免償符、贖宥符とも、日本においては「罪のゆるしを与える」などの意味でも使われ、責めや罪を免れるものや理由、行為そのものを指すこともあります。
さて、人間は本来罪を負っていると考えてしまうと、それを免罪されないと幸せになれない、成功しないなどと言われれば、その免罪を何かに求める事になるのは仕方が無いことです。
それが多くは宗教や、ボランティアなど、しっかりと免罪を約束されそうなものにその免罪を求めるのでしょう。
例えば、武当派太極拳の根本的な思想では、人間の本質は善でも無く悪でも無く、ただ単に無為で自然であると考えます。
道教やタオ(どちらも宗教であり、組織概念、偶像崇拝があるかないかだけの違いです。)の根本思想である、太極思想には無極という完全に無であることから、有が生まれ、無も現象下に置かれたと考えています。
完全なる無とは、有も無もない状態です。善も悪も無い世界。キリスト教ではエデンの園であり、そこにある生命の樹です。太極思想では道です。アダムとイブは陰と陽であり、知恵の樹の実を食べたところから、善悪の存在を知り、堕落していきます。
太極思想では、その善悪はいつも混沌と融合しており、分けることもできるが、離れることは無いという考えです。
このように、もともと、善悪は一体のものであるのだから、免罪することも無いと言うことであり、太極思想には免罪符なる概念がありません。人間の後天的性質が罪だと考えるなら、それは人間である限り、いつも本質的な善と一体であるということから、離れることはありません。
そこで、わたし自身の生まれた環境が、自らの愛情の飢餓を、権力や名誉、お金や自己顕示で代償していき、その代償のためには人の命や存在の尊厳をいとも簡単に奪っていく組織で生計を立て、人よりも贅沢に暮らし、快楽におぼれていた人物を長とする一族にありました。私の祖父ですが、祖父のことは今でも好きですが、祖父はいつも、神や仏に多くの寄付や、欠かさない催事に免罪を求めていました。神道や仏教に対する見識はとても広く、その知識は豊富でした。しかし、それらは全て自らの免罪符であり、それをしていれば、自らが行う卑劣な行為は免罪され、正当化される。そのようになるのです。
私は、祖父の関係もあり、祖父のような絶大な力を得た人に、多く巡り会いました。
必ずといって良いほど、また卑劣で、容赦の無い人ほど、その免罪符を強くもっています。
中国の人は道教やタオ。日本の人は神道。仏教。欧米の人はキリスト教。イスラムの人はイスラム教。
これらが免罪符として、その人に使われるとき、その思想は美しい衣となり、自らの醜い姿を隠すだけに過ぎません。
またその姿に惑わされ、その全ての行為も魅力あふれるもにになるかも知れません。
人は自らの内にいい知れない不安や、罪悪感を感じる時、またその感覚が自らの行いにあると自覚したとき、それを消し去ろうと、中和しようと何かを求めます。多くは宗教です。その宗教にどっぷりとつかり、自らの中和を求めます。
そのような人は、卑劣で、むごい行為をして絶大な力を得た人物が、免罪符を得ようとすれば、その免罪符を得ようとする行為の方を主として、その絶大な力を得たものと錯覚し、その行為を見ないようにしたり、また正当化、極端になると尊敬や崇拝をするのです。
中国や日本においても、裏社会に生きる多くの人間が、絶大な力を持った場合、その思想には必ずといって神道やタオが存在します。
政治家が、世界平和を免罪符にして、戦争を正当化するようなものです。
人は免罪符では救われません。キリストが十字架を背負ったように、人は人である限り、善と悪を併せ持ち、罪を侵し続け、また、無始無終に自然なのです。
いつも免罪符を追い求め、生きていくことが、もっとも不自然な辛い人生であることは、きっと本人にもわかっているはずです。
免罪符としてタオや、神道、仏教にすがり、いくらその思想を身につけても、アルコール中毒者が喉の渇きにアルコールを飲み続けても、いつまでたっても喉の渇きが癒えないのと同じです。
(映画コンスタンティンのへネシー神父でも描かれています)
思想とは人の思想であるのです。宗教も全てそうです。ですから、全ての人間がその思想の種を持っているのです。これは当たり前のことです。何を言いたいかというと、自らの本質に宗教にあるような思想の原点は全てどころかそれ以上あります。
だから、免罪符など元々存在しないのです。それを早く気づき、本来の自分を主にして、それらの思想をただ観る、そして自在に扱うような境地を得れば、何もかもが思い通りに、また楽しく、心に曇りも無い清らかなこの瞬間を生き抜くことができます。
免罪符。そのようなものが真実に存在するのか。ぜひみなさんも考えてみてください。