受容することは愛だといわれていましたが、愛は受ける心ですね。
迎合とは相手の気に入るように努めること、相手に合わせて自分の意見や態度を変えることだと理解しています。
権力に迎合するとかいうことでとてもよくわかりますが、確かに受容するとは、権力を受容するとは言わないですよね。
受容とはどのような事なんでしょうか?愛と漠然といわれてもよくわかりませんでした。
よろしくお願いいたします。
受容することは愛だといわれていましたが、愛は受ける心ですね。
迎合とは相手の気に入るように努めること、相手に合わせて自分の意見や態度を変えることだと理解しています。
権力に迎合するとかいうことでとてもよくわかりますが、確かに受容するとは、権力を受容するとは言わないですよね。
受容とはどのような事なんでしょうか?愛と漠然といわれてもよくわかりませんでした。
よろしくお願いいたします。
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子育ての権威の平井先生の本にも受容という言葉がよく出てきます。受容とは相手が人間としてこの世に存在して行っていることは、自分も人間として行っていることは同じ人間として全て自分自身にも理解できるという、根本的な普遍性に対する受け入れです。
具体的には、相手が自分の愛する人を殺したとしても、その殺すことには理由が必ず存在するし、その理由は反対の立場になっても存在するということを人間として理解する事です。そしてそれを選択して行うか行わないかの問題は、その人の選択の問題であり、理解したことと、選択は別であるという認識を必要とします。
相手が人を殺したいといえば、人を殺したいという理由はよくわかるが、それを選択するかしないかは個人の自由であるという立場です。
そのどちらの選択も理解できるが、どちらを選択するもその人の自由です。
受容の次に、自らの選択を自由に示します。私の選択はこちらだけどと言うことです。その理由は、このように不安に基づくのではなく愛の方を選択したということをしまします。愛とは全てを受け入れることです。このように、すなわち、選択の二つの中にも受容があるのです。迎合は相手の選択に従うことです。相手の選択は相手の自由です。又、自分の選択も自由です。その自由なものを受け入れることこそが受容なのです。
私たちが示せるのは、選択の方法や、その原因や、起こりうる結果の予測です。
受容は相手の心を受け入れるだけのことです。ですから心を受け入れるから愛なのです。漢字もそのようにしてできあがっています。
迎合は心ではなく、相手の選択に従ったり、又はそれに共感することです。
多くの場合は、自分の心をも受け入れないでそのようにする場合が多いのです。それこそ、自分自身をも受容できていないことになります。