存在の尊厳

 人の気持ちを考えることは素晴らしいことです。ただそれも不安か愛、どちらに基づくかによります。

不安の場合。

例えば、心を傷つけられるようなことを誰かに言われた時。

そのようなことを言われたとき、気持ちが落ち込んだから、他の人も同じ様なことを言われた場合は、その不安や憤りはきっと私と同じはずという意識で、自分の落ち込んだ気持ちを正当化するために、他者を利用している場合です。

その場合、他者の気持ちをあたかも自分と同じであるかのように利用するのはその存在の本質を犯すことなのです。

この様な一見思いやりのような行為も不安から始まると、自分の不安を解消するための道具でしか無く、他者が同じような場合でも不安や憤りを覚えず、落ち込まない存在であったとしても、それを自分と同じように考えることによって、自分の不安を解消しようとすることになります。

それが、不安による同情、又は思いやりなのです。

「同情するなら金をくれ」という台詞は、彼女は強く生きようとしている自分の存在を、その人の虚栄心や不安逃避という存在に置き換えようとする同情に対して、自らの主観性により自然に発した台詞であり、多くの人の深層に共感を生んだのです。

その人の存在はその人の尊厳有る部分です。

その存在を利用する人は、私はこんな気持ちですと誠実に述べないで、他者の存在の尊厳まで利用するのです。

他者がそういう気持ちで有ることはその人の気持ちです。自分の不安を解消するために人の存在を利用することはとても恥ずかしい行為です。

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