ボランティア活動の人が、自分の強迫観念による不安を補うために、被災地の人の気持ちが分かると言って偽善活動をする場合もあります。
本来、ボランティアの人が人の気持ちを理解できるのは、人間の本質である無条件の愛のなせる受容の行為です。それが慈善活動です。
例えば自分は弱い人を助けるというのが正しいと思っているから、助けられたあなたは正しい行為を受けていると思うでしょ?と言う押し売りの同情ではありません。
それは、私たちは正しい行為をしていますという気持ちを、相手が不在の認識で無理矢理押しつけ自分の不安をいやしているに過ぎないのです。
体に障害がある人も、その人の道はその人の歩む道です。ほかの人が望む道でも、与える道でもありません。ボランティアの人が道を選ぶのもその道です。その人だけのものです。ボランティアの人はボランティアの人の道のために選択しているのです。忘れてはなりません。
自分が正しいことをしているという気持ちは自分だけのものです。ボランティアを受ける人が同じ気持ちであなたを見ているか見ていないかは関係有りません。受ける人はそれぞれの道を歩んでいます。
私たちは自分の道が全てであり、それを押しつけようとしている人の姿を予言できます。必ず本来の人間の姿とはほど遠い、条件付けられた機械のような姿を、偽善で取り繕った姿の中から現すと、接した最初でわかります。
それを見て、私たちが言いたいのはその様な人が選択したような選択をしないということです。
人間の道というのは、人間を含む森羅万象の全存在の目的地が同じで、瞬間瞬間にそこに行く道順を選択しているだけなのです。行く道を。
目的地はわかっているけど、これからの道はだれも自分でもわからないのに、また、どんな岐路が待ち受けているかわからないのに、人の道がわかるはずがありません。
私たちたちはいろいろな道を、その時の自分の本来の姿に照らし合わせて選択するだけです。
自分の本質に従った選択をするだけです。どんな岐路が待ち受けているかわからないのに、道はわかりません。選択の基準ははっきりわかっているだけなのです。
逆に決めた道を行くと拘ってしまうと、創造や再創造はできなくなってしまいます。
全ての道は祝福に満ちてます。その全てが運命です。
人の道をいとも簡単に、不安の観念で単なる自分の得のために無慈悲に犯してしまった場合は、少しは自分を見つめてみましょう。自分の姿を見てみましょう。その人の道も祝福されるはずです。
自分の観念で、その人の道の尊厳を簡単に自分と同じような条件付きの世界に置き換えてしまっているのです。
人を自分の不安逃れのために自分と同じように被害者にしてさげすむ事になるのです。