(1) 人間のこころの最前線
(a) <前五識>とは、眼・耳・鼻・舌・身のことで、感覚作用である。
2) 前五識の対象
(a) 五識にはそれぞれ対象領域があり、特に<耳識>の対象である<声境>は、以下に分類される。
(i) 第一レベル…<有執受>=生物、<無執受>=無生物
(ii) 第二レベル…<有情名>=意味のある言葉、<非有情名>=意味の無い言葉
(iii) 第三レベル…<可意>=快い、<不可意>=不快
(b) <声境>は上の第一~第三レベルの組み合わせから成るが、最終的に可意・不可意という主観的な受け取り方となる。
(c) 色はほとんど無情だが、音は有情のものが多い。
(d) 視覚よりも聴覚のほうが、情感に訴えることが強い。
(e) 外のものを受け取る感覚作用は、受身的だけではない。
3) 前五識の順序
(a) 五識の順序は、①<遠〔おん〕>②<速〔そく〕>③<明〔みょう〕>④所依の根の上下の違い がある。
(i) ①<遠>とは、遠くの対象を知ることのできる五識の順序。眼→身になればなるほど対象が狭まってくる。眼・耳の二識を<離中知>といい、鼻・舌・身の三識を<合中知>という。
(ii) ②<速>とは、認識の速さをいう。これも、<遠>同様に眼→身の順序で遅くなっていく。
(iii) ③<明>とは、明瞭度のことをいう。これも、<遠>同様に眼→身の順序で遅くなっていく。
(iv) <所依の根の上下の違い>とは、身体の器官での、眼→身の位置のことである。
(b) <五欲>とは、色・声・香・味・触の五境に執着し、それに血眼になってしまうこと。
(c) P186五欲について 「釈氏要覧」の一節
4) ものを知る入り口と出口
(a) 知性とは、感性の中から意識付けされたものである。
(b) 感性によって手に入れられたもののみが、知性を形成する(入り口)。
(c) 意識が前五識を支配し、対象を選びわけ、能動的に率直に表に表す(出口)。
(d) <前五識>は、入り口であり出口である。
(e) 感覚は変わるものではないが、感性は第六意識によって左右される。
5) 誤魔化しの通用しない前五識
(a) <前五識>が働くときは、その人の全人格が同時に働き、支えている。
(b) <前五識>と<阿頼耶識>は共通点がある。
(i) <無覆無記>である。
(ii) 対象の捉え方が直感的である。
(iii) <器界>…ものの世界を対象とする。
(c) 表層の自己(前五識)と深層の自己(阿頼耶識)が直結している。
(d) 「露堂々〔ろどうどう〕」…隠そうとしても、何事も堂々と現れ出ている。という意味。
(e) 表層はそのまま深層を現している。深層の赤裸々な姿が、表層の自分である。
(f) 最も表層の<前五識>が、最も深層の<阿頼耶識>、深層の我執・我欲の<末那識>、知・情・意の<第六意識>などの総体的あらわれである。
6) <識>から<智>への転換
(a) 凡夫のこころが智慧に開けることを、<転識得智〔てんじきとくち〕>という。
(b) 「真理がわかる」ということは、<無常><無我>のことわりがわかるということで、<第六意識><末那識>が智慧に開けることである。
(c) 根源的に自分が変わることを、<仏果位>という。
(d) 最終的に<阿頼耶識>が転識得智されることで、<前五識>の認識する世界が変わる。
(e) <前五識>は、露骨に自分が表れる領域。
自己改造の力となる能力
1) 第六意識の性質
(a) 私たちが認識するあらゆる対象を縁ずる<広縁の意識>である。
(b) 善・悪・無記のいずれにも働く。
(c) ものの真相を観る。
(d) 阿頼耶識と末那識という<こころ>を所絵(依り所)とし、そこを基盤として働いている。
2) 第六意識をより深くせよ
(a) ものを観る主体<観の体>は、内観のことである。
(b) <聞〔もん〕・思〔し〕・修〔しゅ〕の三慧>とは、聞、思、修によって得られた智慧のこと。
(i) <聞>は、仏法を聞くこと。
(ii) <思>は、聞いたことを自分にふり当てて省察すること。
(iii) <修>は、実行すること。
(c) 三慧によって、より深く意識を練ることができる。
3) 人生逃げ腰であってはならない
(a) 第六意識は、対象を造り変えたり、外から入る情報を跳ね返したりする働きがある。
(b) 自分自身を内観し、深く反省するのも意識で行う。
(c) 内観で不完全な自分を自覚することで、造り変えることができる。
(d) 自分を<所観>(客体視)し、再創造することで、<能観>(主体)も変化してくる。これが第六意識の自己改造である。
(e) 第六意識が自分を変えようとしない限り、変わらない。
(f) 第六意識は醜聞をうみ、妄想を描かせ、文化を創造し、環境をも克服していく。
(g) 五倶の意識、不倶の意識ともに練磨していくことが大切。
(h) 第六意識の修行が、<我>を増長するものではいけない。
第六意識
i. ソクラテスは、自分がすべての悪徳を背負っているのを知っていた。
ii. 悪徳を転換させるこころ
1) 第六意識によってのみ、自分を変えることができる。
2) 第六意識は、大きく分けて<五倶〔ごく〕の意識>と<不倶〔ふく〕の意識>がある。
3) <五倶〔ごく〕の意識>とは、五識の感覚とともに働く第六意識のことである。
4) <五倶の意識>の二分類
(a) <五同縁〔ごどうえん〕の意識>…感覚を判断したり思考したりする「知覚」の働きである。(受)
(b) <不同縁〔ふどうえん〕の意識>…感覚から連想する働きである。(想念)
5) <不倶〔ふく〕の意識>とは、五識(感覚)とは関係なく動く意識のことである。
6) <不倶の意識>の二分類
(a) <五後の意識>…<不同縁の意識>がさらに広がった連想の一種のこと。
(b) <独頭〔どくず〕の意識>…完全に五識とは関係なく働く意識のこと。外界とのかかわり無く、独自に働く。三分類される。
(i) ①<独散の意識>…意識が独自の領域に動き、心ここにあらずの状態のこと。不安から働くと妄想に、愛から働くと想像力になる。
(ii) ②<夢中の意識>…夢のような状態のこと。
(iii) ③<定中の意識>…想像力や夢中の状態を超え、夢か現実かわからなくなってしまう無の状態のこと。不安から働くと幻覚も。
我欲から慈愛への転換
1) 末那識は仏陀にもある。それを<已転依〔いてんね〕の末那><出世の末那><無染汚〔むぜんま〕の末那>と呼ぶ。
2) <已転依>とは、悟った後ということである。
3) 仏陀も凡夫も、人間としての基本的な構造は同じであるが、悟った後の末那識は、真如と他のすべてのものが対象となる。
4) <真如>とは、「ありのままの姿」「永遠不変の真理」である。
5) 末那識が「真如を対象とする」ということは、
(a) 空なる本当の自己が見えてくること。
(b) それまでの自画像が虚像であり、幻想・妄想に過ぎなかったという気づき。
(c) 無我・空への覚醒と、虚像の自我の崩壊によって、自分のみに向けられていた<こころ>が広く拡大し、他の存在をも受容するようになること。
6) 末那識の内容が、反価値的な利己性のエネルギーから、愛に転換することを、<平等性智〔びょうどうしょうち〕>という。
v. 我執を投げ捨てよ
1) 末那識の内容の転換は、<我>の思量を<無我>へ変えることであり、虚像の自我への依存から、真実の自己への帰還ともいえる。
識の所依
1) 識の所依とは、何かを基盤とし、何かを依り所としている私たちのこころを捉えたものである。
2) <識の所依>は、①種子依、②倶有依〔くうえ〕、③開導依〔かいどうえ〕がある。
3) ①種子依とは
(a) <こころ>の働き(見方、考え方)は、種子に基づくものである。
(b) 種子は、<本有種子〔ほんぬ〕>と<新薫種子〔しんくん〕>に分けられる。
(c) <本有種子>は、先天的に身に具備するもの。
(d) <新薫種子>は、経験によって新しく蓄積するもの。
4) ③開導依とは
(a) 開避引導の略で、道を開いて後のものを引き出すこと。
(b) 今の<こころ>は、前の瞬間の<こころ>を依り所として働いているということ。
(c) 時間的な前後の関係であり、<こころ>の連続的な一面といえる。
5) 倶有依とは
(a) 倶有とは、「倶〔とも〕に有る」ということから、<倶有依>とは「同時にある依り所」ということである。
(b) 識相互の関係である。
(c) それぞれの識の倶有依は
(i) 前五識=①五根、②第六意識、③第七末那識、④第八阿頼耶識
(ii) 第六意識=①第七末那識、②第八阿頼耶識
(iii) 第七末那識=第八阿頼耶識
(iv) 第八阿頼耶識=第七末那識
(d) 人が生きていることの背後には、末那識が<倶有依>としてぴったり寄り添っている。
四煩悩と慧
1) 末那識とともに働く<心所>(心の作用)は、十八種類あり、特に大切なのが<四煩悩>と<慧>である。
2) 四煩悩とは
(a) 我癡〔がち〕
(i) 自分の本当の姿を知らないこと。(無明)
(ii) 知識が無いのではなく、当然わかるべきものの道理がわからない。
(iii) 暴流のような本当の自分が、作り上げられたゆがんだ姿態によって覆い隠されていることを知らず、ゆがんだ姿態を実体化して自分であると錯覚していること。
(iv) 自分の実相がわからないという消極的な一面。
(b) 我見〔がけん〕
(i) 自分の知っている範囲の姿が、自分のすべてだと思ってしまうこと。
(ii) 自我へのこだわり。自我があるから他人という観念にとらわれる。
(iii) 自我の幻想にこだわり、それを押し出してくる積極的な一面。
(c) 我慢〔がまん〕
(i) 自慢・高慢の気持ち。他人と自分を比較し、相手を侮る慢心である。
(ii) <慢>の心理を分析したものに<七慢>というのがある。
(iii) 七慢とは、①慢、②過慢、③慢過慢、④我慢、⑤増上慢、⑥卑慢、⑦邪慢である。
(iv) ①<慢>とは、無意識下にある「我」という観念により、相手に対抗してしまうことである。
(v) ②<過慢>とは、自分と対等または優れたものに対し、潜在的に自分のほうが良い、自分も同等にできると思うことである。
(vi) ③<慢過慢>とは、自分より優れたものに対して、自分のほうが良い、と段々高慢が高じてくることである。
(vii) ④<我慢>とは、自分にこだわり、自分のほうが相手より優れていると思い上がる気持ちのことである。(天狗)
(viii) ⑤<増上慢>とは、自分ではわかっていない境地を、証得したかのようにふるまうことである。
(ix) ⑥<卑慢>とは、自分よりはるかに優れた人に対し、「たいしたことは無い」と思う慢心である。
(x) ⑦<邪慢>とは、自分にまったく徳が無いのに徳があると思い込むことである。
(d) 我愛〔があい〕
(i) 自分のみを愛し続けること。他と調和しない。オンリーワンのうぬぼれ。
3) 自分の本当の姿を知らないから(我癡)、自分について誤った気持ちを持ち(我見)、高慢になったり(我慢)、うぬぼれ(我愛)を持ったりする。
4) 自慢話の底には、我癡・我見・我愛がひそんでおり、四煩悩は一体不離のようなもの。
5) <慧>とは
(a) 物事を選びわけ、はっきりと区別して決めること。
(b) 四煩悩に共通しているものは、自分と他とは別の存在であると分け、これこそが自分だと実体化し固定化する<慧>の働きである。
末那識 我執のこころ
1) 末那の語源は、インド語の「マナス」の音写で「思い量る」という意味である。
2) 末那識は、自分のことだけにこだわり思い量り、他を認めたがらない我執のこころ(=自我)である。
3) 末那識は、第六意識がなくなった無意識の状態(睡眠中、気を失っている)でも働いている。
4) 末那識は、個の人間として存在するための理由である。生きる力になる。
5) 第六識は善・悪・無記のいずれにも変化するが、末那識は常に<有覆無記>である。
6) 意識的に良いことをしていても、末那識の我執は常に働いている(常恒)。
末那識の要点
1) 我執は、私たちの視野や思考を偏ったものにする。
2) 我執は、潜在的に<こころ>のそこに働き続けている。
3) 我執は、真理や他の存在への暖かい自愛へと、視野広く転換することができる。
人間と仏性の関係
1) <仏性>とは、仏の性質、ありは仏への可能性である。
2) 仏性とは、無条件の愛である。
3) <仏性>の中身は、「永遠性」と「清浄性」の2面で捉えている。
4) 大乗仏教は、みんな仏への可能性を平等に持っている、と捉えている。
5) 仏性の無い人間を、無性有情〔むしょううじょう〕という。
6) 唯識では、<仏性>を①理仏性と②行仏性に分ける。
7) 理仏性とは
(a) 永遠、清浄の真理
(b) 人間の作為を離れた永遠不変の真理。<真如>、<無為法>ともいう。
8) 理仏性と私たちの関係①
(a) 現実の私たちの存在は無常であり、<有為法~ういほう~>という。
(b) 真理(無為法)を<性>、現実(有為法)を<相>と呼び、全く次元が異なるものである。
9) 理仏性と私たちの関係②
(a) 諸行無常、諸法無我の真理同様に、真理そのものである理仏性と私たちは、一体不二である。
(b) 理仏性は、もともと人間に備わっている。
10) 永遠の真理と人間の関係を、2面で捉えることを<非一非異>という。
(a) <非一>は、現実の存在≠真理ということ。
(b) <非異>は、真理は現実の中にあるということ。しかし、一体ではない。
11) 行仏性とは
(a) 人の<こころ>にある清らかな一面のこと。(仏になりたいと求める心)
(b) 人の意志、意識の違いに着眼しており、有為法である。
(c) 行仏性は、<無漏種子~むろしゅうじ~>と呼ばれることがおおい。
(i) 無漏とは、煩悩がないこと。
(ii) 無漏種子とは、阿頼耶識に蓄えられた清らかな力のこと。
(d) 阿頼耶識の中の無漏種子が引き出された人は、行仏性を持っている。
(e) 煩悩などに隠れて無漏種子が出ていない人は、<無性有情>(俗物)であり行仏性を持たない無仏性となる。
12) 真理・真如を<無為無漏>(死んでいる自分、死んで生きる)、仏道を志す清らかな生き方を<有為無漏>、煩悩のとりこになっている凡夫を<有為有漏>という。
13) 唯識がなぜ仏性の無い人間がいるというのか?
(a) 理仏性は誰しも持っているが、行仏性はその人の意識によって隠れてしまっているので、片方が欠けていることになるから。
14) 阿頼耶識の底に第九識がある。(すべてがつながっている純粋意識の部分)
15) 阿頼耶識をクリーンにすると、第九識が上がってくる。
16) 阿頼耶識にためた影の部分は、第九識が光にしてくれる。
17) 唯識とは、第八識をクリーンにする(問題解決する)方法である。
18) 地獄も極楽も願わず、ただ現在の自分を愛し続ける己があるのみ。
阿頼耶識は善か悪か
1) 人間の本性について、孟子は性善説を、筍子は性悪説を説いた。
2) 仏教での善悪は、我執・利己性・自己中心的などを中心にそれに添ったものを悪、それを超えたものを善と捉える。
3) 菩薩の心を清浄といい、凡夫の心を染汚〔ぜんま〕という。
4) 唯識では、善悪2分論ではなく「三性分別」としている。
5) <三性>とは、善(陽)、悪(陰)、無記(無)のことである。
6) <無記>とは、善でも悪でもない性質である。
7) <無記>はさらに<有覆〔うふく〕無記>と<無覆無記>に分類される。
8) 有覆〔うふく〕無記は、汚れのにおいのする無記(グレー)。
9) 無覆無記は、混じりけの無い純真無垢な無記。
10) 阿頼耶識は無覆無記である。
11) 一人ひとり異なった人格自体に、善悪は当てはまらない。
12) 過去と現在との関係…①異熟因→異熟果②同類因→等流果
13) ①異熟因→異熟果の関係
(a) 過去の因と現在の果とは、異なった性質である。
(b) 過去の業が善・悪であっても、現在の姿は無記である。(善因→無覆無記、悪因→無覆無記)
(c) 阿頼耶識において、この関係が成り立っている。
14) ②同類因→等流果の関係
(a) 過去の因と現在の果は、同じ性質である。
(b) (善因→善果、悪因→悪果)
(c) 種子において、この関係が成り立っている。
15) 生きていること自体は無覆無記であるが、その上に留められている種子は、善の種子は善の性質、悪の種子は悪の性質そのまま変わらない。
16) 過去に悪行を積み重ねてきた人間も、善行を積んできた人間も、現在は同じ無記である。
17) 阿頼耶識は、過去の業の総合の果体である。
18) 阿頼耶識は、過去と未来を収蔵した存在である。
19) 今現在という一点に、無限の過去と未来が圧縮されている。
20) 今この瞬間をどう生きるかが、自分の全存在であり全生涯となる。
自分の器量を生きよ
1) 人は別々の経験を蓄積した阿頼耶識によって、個としての独自の人生を生きている。
2) 他人を羨まず、さげすまず、自分の器で生命を堂々と生きよ。
3) <個>を鍛え<個>を深め<個>に生きる。
4) 自分…自我自己を含むすべて、人間存在の根源に立って自己を捉えた言葉。
5) 阿頼耶識をどう扱うかは、末那識にかかっている。