本来人間は、何もしなくてもただ生きていれば健康です。健康とは単に病気ではないと言うことではなく、本来の生き生きとした生命力あふれる状態のことです。
年金問題を解決するには、全ての人が自立して自分の健康を確立することです。
健康とは心と体の心身一如と森羅万象が和合した状態です。
ボランティア活動の人が、自分の強迫観念による不安を補うために、被災地の人の気持ちが分かると言って偽善活動をする場合もあります。
本来、ボランティアの人が人の気持ちを理解できるのは、人間の本質である無条件の愛のなせる受容の行為です。それが慈善活動です。
例えば自分は弱い人を助けるというのが正しいと思っているから、助けられたあなたは正しい行為を受けていると思うでしょ?と言う押し売りの同情ではありません。
それは、私たちは正しい行為をしていますという気持ちを、相手が不在の認識で無理矢理押しつけ自分の不安をいやしているに過ぎないのです。
体に障害がある人も、その人の道はその人の歩む道です。ほかの人が望む道でも、与える道でもありません。ボランティアの人が道を選ぶのもその道です。その人だけのものです。ボランティアの人はボランティアの人の道のために選択しているのです。忘れてはなりません。
自分が正しいことをしているという気持ちは自分だけのものです。ボランティアを受ける人が同じ気持ちであなたを見ているか見ていないかは関係有りません。受ける人はそれぞれの道を歩んでいます。
私たちは自分の道が全てであり、それを押しつけようとしている人の姿を予言できます。必ず本来の人間の姿とはほど遠い、条件付けられた機械のような姿を、偽善で取り繕った姿の中から現すと、接した最初でわかります。
それを見て、私たちが言いたいのはその様な人が選択したような選択をしないということです。
人間の道というのは、人間を含む森羅万象の全存在の目的地が同じで、瞬間瞬間にそこに行く道順を選択しているだけなのです。行く道を。
目的地はわかっているけど、これからの道はだれも自分でもわからないのに、また、どんな岐路が待ち受けているかわからないのに、人の道がわかるはずがありません。
私たちたちはいろいろな道を、その時の自分の本来の姿に照らし合わせて選択するだけです。
自分の本質に従った選択をするだけです。どんな岐路が待ち受けているかわからないのに、道はわかりません。選択の基準ははっきりわかっているだけなのです。
逆に決めた道を行くと拘ってしまうと、創造や再創造はできなくなってしまいます。
全ての道は祝福に満ちてます。その全てが運命です。
人の道をいとも簡単に、不安の観念で単なる自分の得のために無慈悲に犯してしまった場合は、少しは自分を見つめてみましょう。自分の姿を見てみましょう。その人の道も祝福されるはずです。
自分の観念で、その人の道の尊厳を簡単に自分と同じような条件付きの世界に置き換えてしまっているのです。
人を自分の不安逃れのために自分と同じように被害者にしてさげすむ事になるのです。
認識、誠実、責任という大切な概念があります。自分の気持ちを認識して、誠実に自分の気持ちとして責任もって話すことです。
存在を利用する人は、存在を利用された人と同じ道を歩んできたわけでもないのに、わかる気がすると言うことで認識し、誠実に自分の気持ちを話すのですが、責任がありません。要は、自分の利益のための認識だからです。
自分の利益のためなら、人の不安や愛までもあたかも自分のもののように利用することが、無責任なのです。
人はそれぞれ自分のの道を選んで生きている素晴らしい存在です。
人それぞれの人生における価値観は様々ですが、それははかり知れません。それであれば、その人の人生における経験を感じるとき、自分の価値観で認識するのではなく、その価値観は普遍性を持ってのみ認識するべきものです。なぜなら、その個性はその人のものであって、どの様な認識に立っての価値観かは、その人の尊くて厳かで侵しがたい、その人だけの認識であり、この世に同じものは一つとしてありません。完全なる個性です。尊厳有る個性です。もちろんそれは一体という普遍性の基にあるのです。その個性で、たの個性を認識することが、戦争や環境破壊、憎み合い、ねたみなどのあらゆる分裂を引き起こすのです。
地面からキノコが出るように、出る地面は同じであるが、キノコ地震はそれぞれ同じものはありません。地面の認識は共通してあり、そこに誠実で責任を持てばいいのです。自分という個の部分の認識と誠実・責任で他をとらえることは、他の尊厳を損なうことになるのです。例え同情であってもです。
それぞれ違う経験で尊厳有る人生を歩んでいます。映画「嫌われ松子の一生」のエンディングを見たらそれを感じるはずです。
単に自分が不安から逃れるために、人の尊厳を踏みにじることはやめるべきです。恥を知るべきです。世の中でもし融合と調和の存在そのものに善という概念を持たせるなら、相対性として悪という概念を与える事ができるのは、唯一尊厳有る存在を踏みにじることです。
私たちはあらゆる存在の尊厳だけは守ります。認識は普遍性を持って行い、誠実は本質に誠実であり、責任は全体に対してです。認識を自我だけで行い、誠実は自我だけに従い、責任は自我だけに持つ。結局は自我以外に誠実でなく、責任もありません。世の中に蔓延する、認識・誠実・責任は表面に見えてる部分では言葉として同じでも、中身は全く違うものです。
尊厳はもちろん人間だけでなく、誰のものであれ、それこそ一体である自分だからです。その為ならあらゆる力を使うでしょう。
私たちの活動はその為にもあります。誰の存在も誰かの自我を損なう不安逃れのためだけにで利用されるようなものではありません。
人の気持ちを考えることは素晴らしいことです。ただそれも不安か愛、どちらに基づくかによります。
不安の場合。
例えば、心を傷つけられるようなことを誰かに言われた時。
そのようなことを言われたとき、気持ちが落ち込んだから、他の人も同じ様なことを言われた場合は、その不安や憤りはきっと私と同じはずという意識で、自分の落ち込んだ気持ちを正当化するために、他者を利用している場合です。
その場合、他者の気持ちをあたかも自分と同じであるかのように利用するのはその存在の本質を犯すことなのです。
この様な一見思いやりのような行為も不安から始まると、自分の不安を解消するための道具でしか無く、他者が同じような場合でも不安や憤りを覚えず、落ち込まない存在であったとしても、それを自分と同じように考えることによって、自分の不安を解消しようとすることになります。
それが、不安による同情、又は思いやりなのです。
「同情するなら金をくれ」という台詞は、彼女は強く生きようとしている自分の存在を、その人の虚栄心や不安逃避という存在に置き換えようとする同情に対して、自らの主観性により自然に発した台詞であり、多くの人の深層に共感を生んだのです。
その人の存在はその人の尊厳有る部分です。
その存在を利用する人は、私はこんな気持ちですと誠実に述べないで、他者の存在の尊厳まで利用するのです。
他者がそういう気持ちで有ることはその人の気持ちです。自分の不安を解消するために人の存在を利用することはとても恥ずかしい行為です。
外因 的 (環境的 )考察 | 大脳生理学的考察 | コンピューターとして考 えると | 研究結果 に基 づき基本方針 | |
基本理念 | バイリンガル遺伝子 | 遺伝子 (言葉 は後天的 情報 が主体 ) | 先人達 | の研究 による基本理念言語 は後天的情報 が主体 であるため、重要視 しない。 |
基本 設計 期 | 環境 | を両親 や生活地域 で提供 する。ネィティブな英語 の音楽 を聴 かせたり、英語 の文字 を見 せたり、ネィティブの場合 は話 しかけたり。生後6ヶ月くらいまで、幸 せにいきるための無意識 の理念 を保有 した右脳 (先祖脳 )に基 づき(幸 せにいきるための情報 を集 める)一生集 めます。 | 基本理念に基 | づき、OS開発 のための設計図作成 。研究 はいつまでも続 け、引 き継 いでいく。重要/言葉よりも五感を求めるが、幸せな感覚の時に聞こえるものや見えるものが英語であるとそれを情報として蓄積する。 |
基本 開発 期 | 環境提供 | と、*環境法 に基 づき、幼児 の自発的開発 に参加 しながら、バイリンガル機能 を開発 期 に右脳 に組 み込 む2・3歳 くらいまで、幸 せにいきるための行動 を右 脳 に基 づき起 こしてみることで、右脳 を開発 する | 設計図 | に基 づき、テストを繰 り返 し、OSを開発 する。OSにバイリンガル機能 を基本 機能 として組 み込 む最重要(右脳にバイリンガル機能がないと言うことは、OSがバイリンガル仕様ではないと言うことと同じ) |
基本 | 完成期遊 | ぶ、食 べる、寝 るという基本重要 機能 を高 めていく活動 に英語 が必要 であるように組 み込 んでいく。5・6歳 くらいまで、幸 せにいきるための行動 の中 から、重要 なものを選択 し、その機能 を高 める。すなわち、遊 ぶ、食 べる、寝 るである | OSの基本機能 | がほぼ出来 たので、その中 でも重要 な部分 の機能 を高 めていく。必要(より高度なバイリンガル機能を右脳に持たせる。この時期が基本的右脳の |
個性 化 | これから始 | める場合 は、すでに、基本的 な部分 として英語 はないので、繰 り返 し英語環境提供 されることは基本的 に苦痛 である、苦痛 であっても最初 はなれるまで繰 り返 し、楽 しいと思 えるようになったらまずまず成功 であるが、失敗 すると、一生苦痛 としての残 るなどの危険性 がある。すでに英語 を基本 としている場合 は、個性化 のため様々な英語学校 に通 うのも苦痛 なく、自分 のものに出来 る。8から10歳 くらいまで、自分 に最 も適 し、高 めた選択肢 を使 って行動 し、機能 を自分に使 いやすくする | OSのパーソナライズである。様々 | な設定 を自分 に使 いやすいように設定 する。この時期 に新 しいソフトとして英語機能 を使 うには、OSに英語機能 を加 えることになるが、すでにできあがったOSに英語機能 を付加 することは容易 ではない。この時期 から英会話 を始 めると今後 は反復練習 により、強制的 に右脳 に対 し、英語 が必要 であることの情報 を与 え続 ける必要 があるが、右脳 は楽 しいこと幸 せにいきることが基本 であるので、楽 しくないとそれを受 け付 けない。しかし、すでに右脳基本部分 は完成 しており、その基本 に英語 がない場合 は苦痛 であるので、様々 な方法 で英語 を楽 しくさえることを苦労 する |
活用期 | これから始 | める場合 は、英語 に違和感 を感 じることになる。その違和感 だけの環境 が必要 で、大 きな苦痛 が伴 う。その苦痛 を打破 しても英会話力 を得 る意思力画筆余 である。又 個性化 の時期 にブランクが会 っても、成人 になると個性化 の訓練 を英会話学校 などで行 うだけで、違和感無 く、自然 に英会話 に取 り組 め、短期間 で楽 しく英会話 が身 に付く。 個性化時期 より続 けている人 は言 うまでもない。成人 、高 めた機能 で、高度 な行動 を様々 な情報 に基 づき行 うことが出来 る。 | ジョブの実行期 | である。自分 のやりたいことに、様々 なソフトを使用 し、そのソフトではいつでも英語機能 を使用 することが出来 る。英語機能 がない場合 は、ジョブの実行 の時 に急 に英語 が必要 でも使用 できない。OSから変 えなければならないことになる。この時期 から始 めると、すでに右脳 は個性化 まで終了 しているため、英会話 に対 して、大 きな違和感 を感 じる。これ以上 に活用期以前 に学校教育 などで英会話 に苦痛 を感 じた場合 は、より違和感 やアレルギーが強 くなる。どちらにしても楽 しくないと英会話 は身 に付 かないので、情報 として左脳 に蓄積 した知識 で英会話 を駆使 し、慣 れて使用 する環境 が有 れば、右脳 が楽 しいものとして新 しく受 け入 れることが出来 るが、相当 な努力 が必要 である。 |