食欲と性欲

食欲と性欲は、人間の2大欲望であり、又密接に関係している。

人は食について大いに語る。又、食は健康の要であるとして公に談義する。

しかし、性についてははばかり、性の健康効果について声が小さい。

私たちの行う太極拳には、内丹仙術が同梱する。内丹仙術は外丹としての食。内丹としての性がある。

食は口などから長寿と健康に良いものを体内に取り込む術である。

性は体の内の生理を活性化させて長寿と健康に役立てる術である。

このように、外からと内からで健康に生き抜く欲望が食欲と性欲である。

性欲は、精神と肉体を健全に保つための体内ホルモンのバランスを司る。

陰陽の世界において、男と女は陽と陰であり、その精(人間の精神と身体の総合体)の融合のみ、人体の生理バランスが健全に保たれる。

すなわち太極拳内丹においても、導引法や行気、気功など様々有るが、結局は、男女の心身の融合、すなわち性愛に導くための道でしかない。

人類があらゆる森羅万象と受け入れ合い、無為自然にただ当たり前に幸福に健康に過ごせるのは、最後には愛である。

食欲は、宗気としてその生存を司り、宗気は原気である性をはつらつとさせる。

性が暖まれば、人間の存在は明らかになり、存在とは受け入れ合うことで有ることを知り、森羅万象と始めて溶け合う。

その人間の営みが性欲である。

食欲と性欲は、このように先天の性である原気に導かれていく。原気を見失えば、偏重や双重などの病に犯され、後天の性に留まって、その場で止まり、緊張して朽ち果てることになる。

原気は、人間の先天に宿る。外丹は先天の性によって食欲を導く、内丹はその先天の性によって性欲を導く両輪である。

人は、原気を見失った罪悪感によって性欲を闇の彼方に追いやった。老子さえ、後には房中に対する解釈を葬られた。おっぱい仙人で有名な老子も中国では今もタブーに近い。

老子の純粋な素晴らしい性欲を今更説明することもないが、そろそろ、愛有る素晴らしい性欲について公開する準備を始めたいと思う。その純粋な性欲に基づく房中が桃源郷である。桃はその甘美を表している。

その真理をつかみ、無為自然に発露することができるようになれば、それが房中術であり、けっして、形でも技でもない。無為自然な愛に導かれる行為がそこにある。夢のような性の恍惚の世界である。

しかし、性は房中という室内という言葉に秘められてしまった頃から、秘め事になってしまっている。

私は高校時代から性については特殊な環境に置かれ、20代には人が経験したことがないような性の世界を味わった。また、私の太極拳の師は70才を超えて、いつもモデル風の女性を数人連れて私の働くディスコに来てチークダンスを踊り、そのまま夜のホテル街へ消えていった。彼は良く房中術について私に話していたが、若い私には興味もなく聞く耳を持たなかった。しかし、30才を超えた頃に、太極拳の内丹術の中にはその術はしっかりと内包されていて、その内容は彼から私に伝承された。後は、その術の真理を掴むことは、その頃の私にとってそんなに難しいものでは無かった。そのおかげで、それからの人生における性の展開はたぶんみなさんの常識を超える世界である。

食欲と性欲は豊かに活き活きとしている。これが人生をつややかに生きる秘訣であることは、誰もが否定はしないでろう。しかし、性欲に関してはそれをあらわにしない。あきらめる。死ぬまで食べるのに、死ぬまで性を行おうとしない。全く不思議である。

これが、今、人々の心身の大きな陰りの原因である。

自分の体を愛する・・・・生存を愛する・・・食欲である。空間である。人間としての心身がこの瞬間を光輝き空間を繁栄する。

自分の過去と未来、そして今を愛する・・・存在を愛する・・・性欲である。時間である。先祖と子孫が時間を繁栄する。

空間と時間をもって命を生きる。これが人間である。