i. 自分の向上を資〔たす〕けるあらゆる修行を積み重ねる段階。
ii. 修行は、大分類三、小分類三十の項目があり、それを<三階三十心>という。
iii. 大分類の<三階>とは、<十住><十行><十廻向〔じゅうえこう〕>である。
iv. 小分類の<三十心>とは、<三階>がそれぞれ十にわかれていることをいう。
v. 十住とは、<こころ>が仏道修行にきまって動かぬ十心である。(主に精神的な部分)
1) 発心住〔ほっしんじゅう〕…仏道への純粋な気持ちをおこす。(信心、精進心、念心、恵心、定心、施心、戒心、護心、願心、廻向心。)
(a) 知的探求を本筋とする唯識でも、根底には仏(本当の自分)への<信>がある。
(b) 仏を知り尽くしていたら、仏を求めることはない。また、全く知らなくても、求めることはない。
(c) <信>の心所での「心澄浄」というところで、「忍」は知的な認識、「楽」は情的な思慕、「欲」は意志であった。
2) 治地住〔ぢぢじゅう〕…身・語・意の行いを清浄にする。
3) 修行住〔しゅぎょうじゅう〕…唯識観を深め、六波羅蜜の修行を進める。
4) 生貴住〔しょうきじゅう〕…自分の全てが真理の中にあることを自覚する。
5) 方便住〔ほうべんじゅう〕…自分の善行を自分のためにせず人々のために生かそうとする。
6) 正心住〔しょうしんじゅう〕…毀誉褒貶〔きよほうへん〕に動かされない。
7) 不退住〔ふたいじゅう〕…後退しない。
8) 童真住〔どうしんじゅう〕…子どものような純粋な気持ちを持つ。
9) 法王子住〔ほうおうじじゅう〕…優れた智慧によって、将来法王になるような高邁な精神を持つ。
10) 灌頂住〔かんぢょうじゅう〕…王位につき得るくらいの勝徳を備える。
vi. <十行>とは、十の<行(行動、行為、実践)>のことである。(主に実践の部分)
vii. <十廻向>とは、十の<廻向(めぐらす)>のことである。自分に向ければ大いに得になり利益になるようなことを、他に廻すということ。
viii. 唯識の修行の一番根本は、「人間の認識のしくみ」、「存在の空無性」、「深層に潜在する利己性」などへの省察と自覚を深めていくことである。=<唯識観>=<解〔げ〕>
ix. <資糧位>は、<智慧行>と<福徳行>に分類される。
1) 「智目行足」とは、行動の方向は<智慧>によって導かれ、<智慧>は<行>によってのみ現実化し具体化するものであるということ。
2) <福徳行>とは、人をいたわり、許し、助ける修行のことである。
(a) <布施>…与えること。
(b) <精進>…<こころ>を込めて前進すること。
(c) <禅定>…ゆったりとした<こころ>の定まりのこと。
3) <智慧行>は、福徳行をするために見定める修行である。
x. <資糧位>を支える力のことを、<四勝力〔ししょうりき〕>という。
1) <因力〔いんりき〕>…自分の力のこと。
2) <善友力〔ぜんうりき〕>…真理への志が同じで、ただそれだけで結ばれている善友の力のこと。
3) <作意力〔さいりき〕>…自分の力を出し切ろうと思い立つこと。
4) <資糧力>…身体・言葉・こころの三業すべての善き行為のこと。
xi. <四勝力>によって存在や認識の省察を深め、2つの濁乱<煩悩障><所知障>が消えていく。
1) <煩悩障>…情的な迷乱
2) <所知障>…知的な迷乱
五位の修行
a. 人間が自己完成し、深みを増していくための課程を、五段階に分けて考えられているのが五位の修行である。
b. 五位とは、<資糧位><加行位><通達位><修習位><究竟位>である。
偏依円の三性
i. <三性>は、<依多起性><遍計所執性><円成実性>のことをいう。
ii. <偏依円の三性>は、<三性>の頭文字をとって名づけられており、唯識教義の重要なひとつである。
iii. <依多起性〔えたきしょう〕>とは
1) 「他に依って起こる性」という意味である。
2) 存在の面から捉えると、私たちは様々な諸条件によって形成されており、空しく、はかないものであるということ。
「諸法無我」…私たちが健康であるのも、私が私であるのも、様々な条件の相互のかかわりのうえにあるに過ぎない。
3) 認識の面から捉えると、私たちは自分の言葉や観念イメージ等を投影して対象を見るということ。条件の変化によって変わる。(例:幼児が書いた父母の似顔絵は、鼻の穴が強調されている。これは、いつも親を下から見上げているからである。)
4) <名言>の持つ役割
(a) 頭の中にある観念が認識成立の重要な要因になっている。その観念を<名言〔みょうごん〕>という。
(b) <名言>も、主観の投影と同じである。
(c) 言葉(名言)には、認識が制約され固定化され、思考、思索も拘束するといマイナス面もある。
(d) <名言>が先行すると、言葉が独立性を帯びて、柔軟で自由な認識が抑えられてしまう。
(e) 世界中の戦争で必ず、「正義の戦い」と主張し、その名の下に勝敗を裁いてきた。これこそ<名言>の恐ろしさである。
iv. <遍計所執性〔へんげしょしゅうしょう〕>とは
1) 「遍〔あまね〕き計〔はから〕いに執着される性〔もの〕」という意味である。
2) 感覚の対象も、思考の対象も、無条件に信じていること。
3) いろいろな条件の組み合わせである存在や認識の実態を、固定化し実体化する働きのこと。
4) 対象を<法>で表わし、<法>を無条件に是認することを<法執〔ほっしゅう〕>という。(相分を実在と信じてしまうこと)
5) 自分で作り上げたもの(相分)に拘束されてしまうことを、<相縛>という。
6) 自分を中心とした計らいが、私たちの思考や認識に浸透している<末那識>が働くから、<遍計所執性>が出現する。
7) <遍計所執性>は、自己自身の実態の省察を困難にする。
8) <遍計所執性>は、私たちが勝手に描いた虚像の世界であり、それを<体性都無〔たいしょうとむ〕とか<情有理無〔じょううりむ〕とかいう。
v. <円成実性〔えんじょうじっしょう〕とは
1) 「円」は周遍の義といわれ、普遍性を表わし、「成」は成就の義で、常住を表わし、「実」はその真実性を表わす。
2) 普遍的で永遠に真実なものという意味。<真如><無為法>
3) <遍計所執性>が迷いの人間の実態ならば、<円成実性>は悟りの自己である。
vi. <三性>相互の関係
1) <依多起性>の示す心理は、どこにも固定的絶対的な物はないというものだ。しかし人間は、その存在や認識の空無性に耐えられないので、意識の中に作り上げられた物に依存しようとするのである。
2) <遍計所執性>は、真実の信念が持つ強烈な頑固さと柔軟な精神さえも、停滞化し、凝固化し、固定化してしまう。
3) <依多起性>と<遍計所執性>は、共に空無である。<円成実性>は、その存在と認識の空無性の真理である。
4) <三性>の相互の関係は、一体(不離・非異)でもなく別体(不即・非一)でもない。(=不即不離・非異非一)
5) 物事の断定は、その断定する人間の判断力に依存しており、その人の主観である。
6) 「智慧」の「智」は決断、「慧」は簡択(えらびわける)ことである。
7) 仏教によっては、自己が本来的に仏であることを強調するあまり、自分の相対有限性を忘失してしまうものがあるが、人間はあくまで人間であり超人ではない。
8) 「<遍計所執性>=<依多起性>」の自分と「<円成実性>=<依多起性>」の自分は全く異質の自分である。
9) 「眼横鼻直〔がんのうびちょく〕」=道元禅師が中国での四年間の修行で得たこと…眼は横に、鼻は縦にというありのままの自分が、ありのままに分かったことを表した言葉。
10) 自分の都合の良いように合わせて見たものが<遍計所執性>の自己であり、その真相に気がつくのが<円成実性>の自己である。
11) 「<遍計所執性>=<依多起性>」から「<円成実性>=<依多起性>」の自己になったとき、眼横鼻直の真理の分かる真実の自己になる。
12) 今ここに生きている現実にこそ、人生の奥義がある。
13) 虚妄なる分別(遍計所執性)の中に空性(円成実性)があり、空性の中に虚妄なる分別がある。『中辺分別論』より
14) 眼横鼻直のありのままの自己の中に、「仏法」=真理がある。
15) <円成実性>=永遠の真理を証見する(信じる、理解する、自覚する)ことで初めて<依多起性>が見えてくる。
16) 自分を反省し、自分への自覚を深めるという道でしか、自分を超える方法はない。
17) 仏を呼ぶ凡夫は、すでに仏に出会っている。=行仏性
四分の教え
a. <四分〔しぶん〕>とは、
i. <識>の四つの側面である。<心王>と、実の三十二の<心所>のすべてに<四分>がある。
ii. <相分〔そうぶん〕><見分〔けんぶん〕><自証分〔じしょうぶん〕><証自証分〔しょうじしょうぶん〕>のことである。
1) <相分>とは、認識の対象のことである。(客体)
2) <見分>とは、<相分>を直接認識することである。(主観)
3) <自証分>とは、<見分>を自覚する働きの一面である。<見分>を対象としてみている自分である。(自我)
4) <証自証分>とは、<自証分>を自覚する一面である。(本来の自分)
5) 例:「花を見る」…①花=相分、②花を見ている自分=見分、③花を見ている自分を自覚している自分=自証分、④自覚している自分をさらに自覚する自分=証自証分
6) 例:「店」…①商品の値段=相分、②店員=見分、③店長=自証分、④社長=証自証分(本来の自分)
iii. 自分が自分と対話し、自分が自分を自覚し、さとるという構造がある。
iv. 「成唯識論」では、認識は<四分>で完結するという。なぜなら、<自証分>と<証自証分>は互いに自覚しあうからである。(弁証法的内観法)
v. <相分>と<自証分>とのつながり
1) 人とものとはつながっている。
2) <相分>は、<自証分>が<相分>という形になって現れたものである。
3) <相分>は、外に実在するのではなく、自分の<こころ>の投影である。
4) 自分の作り上げた<相分>に縛られることを<相縛>という。
5) 相分は<影像〔ようぞう〕相分>と<本質〔ほんぜつ〕相分>がある。
6) 自分の<こころ>のありようで、<相分>は美しくも清くも豊かにもなる。
不定
i. <不定〔ふじょう〕>とは、「善悪どちらにも固定していない(善にも悪にも働く)」という意味。
ii. <悪作><睡眠><尋><伺>の四つに分類される。
iii. <悪作〔おさ〕>とは
1) よろずのことを悔しむ心、後悔すること。
2) <悪作=悔>が昇華すれば、懺悔につながる。
iv. <睡眠〔すいめん〕>とは
1) 眠くて意識の朦朧とした状態のこと。
v. <尋〔じん〕>、<伺〔し〕>とは
1) 両者とも、ものごとを推し量る推理力のこと。
2) 細かく分けると、浅い→<尋>、深い→<伺>。
3) 唯識では対象を知るのに、直感的な認識(現量)と、推理による認識(比量)の二つの方法がある。<尋><伺>は、後者である。
随煩悩
i. 根本煩悩に付随して起きる煩悩のこと。細やかにも激しくも動く。
ii. <小随煩悩><中随煩悩><大随煩悩>の三郡に分類される。
iii. <小随煩悩>
1) 各別に強い性格を持っており、不善そのものとして働く心作用のこと。他の煩悩との共通点は小さい。
2) <小随煩悩>は、十ある。
3) <忿〔ふん〕>とは
(a) 怒りの爆発のこと。
(b) 根本煩悩は<瞋>である。
4) <恨〔こん〕>とは
(a) 恨みのこと。(心でくすぶり続けているだけ。陰湿)抑圧によって起こる。
(b) 根本煩悩は<瞋>である。
5) <覆〔ふく〕>とは
(a) 自分の悪を覆い隠すこと。
(b) 根本煩悩は<貪・むさぼり><癡・おろかさ>である。
6) <悩〔のう〕>とは
(a) 悩むこと。どうにもならないことを考えること。
(b) 根本煩悩は<瞋>である。
7) <嫉〔しつ〕>とは
(a) 嫉妬すること。
(b) 根本煩悩は<瞋>である。
8) <慳〔けん〕>とは
(a) 物惜しみすること。けち根性。
(b) 根本煩悩は<貪・むさぼり>である。
9) <おう>とは
(a) 相手の心を乱し、たぶらかすこと。
(b) ありのままの自分を妨げ、実物以上の自分を見せびらかそうとすること。
(c) 根本煩悩は<貪><癡>である。
10) <諂〔てん〕>とは
(a) 相手を自分のほうに向けさせようとして、心にも無いことを言ったりしたりすること。
(b) 根本煩悩は<貪><癡>である。
11) <害〔がい〕>とは
(a) 人の哀しみが分からないこと。→人の心が分からない。
(b) 根本煩悩は<瞋>である。
12) <憍〔きょう〕>とは
(a) 自分をおごり高ぶること。
(b) <憍>と<慢>はよく似ているが、<慢>は他人と自分を比較して高慢になることで、<憍>は他との比較の意識は少なく、自分を自慢し思い上がること。
(c) 根本煩悩は<貪・むさぼり>である。
iv. <中随煩悩>
1) <小随>の心所である、不善の<こころ>の働きの根底に、常時見られる心作用のこと。
2) <中随煩悩>は、<無慚><無愧>の二つがある。
3) <無慚〔むざん〕>とは
(a) 真理に対しても良心に対しての羞恥心がないこと。
(b) ⇔<慚>内面的な羞恥心
4) <無愧〔むき〕>とは
(a) 世間体も人のことも気にしない心作用のこと。
(b) 底に自我中心・利己性があり、己の汚れを自覚しない。
(c) ⇔<愧>世間をはばかり、人目を恥じる
5) 恥とは、自分を省みること。
6) <無慚><無愧>は、自分を振り返り、省みることを忘れた心所である。
v. <大随煩悩>
1) 「染心(不善、悪心、有覆無記)」に働く心作用のこと。
2) 八つに分類される。
3) <掉挙〔じょうこ〕>とは
(a) こころのたかぶりのこと。「頭にきた」
(b) 内面的に平静な状態を失う。
4) <惛沈〔こんぢん〕>とは
(a) こころが沈んでしまうこと。
(b) 内面的に平静な状態を失う。
5) <不信〔ふしん〕>とは
(a) 不信感を抱くこと。相互の関係は完全に遮断される。
6) <懈怠〔けだい〕>とは
(a) 善い事、為すことを怠けていること。(積極的)
7) <放逸〔ほういつ〕>とは
(a) 善悪の判断も行動もだらしないこと。(消極的)
8) <失念〔しつねん〕>とは
(a) 念ずることを失っている。仏陀の教えや真理への志向を忘れること。(命を大事にしていない)
(b) ⇔<正念〔しょうねん〕>
9) <散乱〔さんらん〕>とは
(a) 心が定まらないこと。
(b) 対象への移り気があり、落ち着きの無い状態。
(c) 内面的に平静な状態を失う
10) <不正知〔ふしょうち〕>とは
(a) 誰にでも分かるはずの道理が分からないこと。
(b) <無常><無我>あるいは<空>の自己が会得できないこと。
(c) <不正知>の自覚は、<正知>を得ることのみ。
11) 正知・正見を得れば、煩悩はすべて崩れる。(特に分別起の煩悩)
12) 正知・正見が得られないから、我見・辺見・邪見などが我が物顔に活動する。
vi. 「煩い悩む」ことは、悪ではない。
vii. 自分の煩悩を自覚し、己への省察を深めていくことが大事である。
viii. 「人の心、もとより善悪なし。善悪は縁に随っておこる」道元禅師
『正法眼蔵随聞記』より
煩悩(捨てるべき心所)
i. 煩悩は、唯識では<根本煩悩>と<随煩悩>に分けられる。
ii. <六根本煩悩>は、1貪、2瞋、3癡、4慢、5疑、6悪見であるが、悪見をさらに5つに分けて<十根本煩悩>という時もある。
iii. <六根本煩悩>とは
1) <貪〔どん〕><瞋〔とん〕><癡〔ち〕>
(a) 三不善根とか三毒といわれ、すべての煩悩の源となる。
(b) <貪>は、自分と自分の境遇に執着すること。
(c) <瞋>は、自分の気に入らぬものに腹を立てること。
(d) <癡>は、物の道理のわからぬ愚かさのこと。
(e) 自分も自分の境遇も、様々な条件、出会い、関わりなどによって存在しているに過ぎない。<空>であり<無常><無我>である。
(f) <癡>は、存在の真相を見えなくし、<無常><無我>に対して不変的実体の虚像を描いてしまう。
(g) <無常><無我>の真相が分からないから、<貪>がおきる。
(h) 自分の真相が分からず、自分でない自分に執着しているから、<瞋>がおきる。
2) <慢〔まん〕>
(a) 高慢な思い。思いあがって他を見下す心作用のこと。
(b) <慢>の詳しい心所は、第七末那識の<七慢>参照。
3) <疑〔ぎ〕>
(a) 真理それ自体を疑い、ためらうこと。
4) <悪見〔あっけん〕>
(a) 在るものの真相を見ず、自分の願望や主観で、自分の気に入るように見ること。
(b) 無常だ無我だと、否定的一面だけを見ること。
(c) ⇔<善見><正見>(在るものをそのまま見る)
(d) 「顚倒推度てんどうすいたく」とは、さかさまにものを考えることで、善見(正しい見方)と悪見(さかさまな見方)とを対照的に見ている。
iv. <十根本煩悩>とは
1) <六根本煩悩>の<悪見>を、さらに1薩迦耶見、2辺見、3邪見、4見取見、5戒禁取見の5つの顚倒見に細分したもの。
2) <薩迦耶見〔さつがやけん〕>
(a) 自己の真相(無・無我の自己)が分からず、自分のことにこだわっている自己中心的なこころのこと。
(b) 不愉快な思いの根元は、たいていこの自我にこだわる心にある。
(c) <癡>と<薩迦耶見>は表裏一体の関係にある。
3) <辺見〔へんけん〕>
(a) 一辺に固執する偏った見方のこと
(b) 原初的意味は、死後、命は存続するか断滅するかの、一方のみを絶対とするものであった。
4) <邪見〔じゃけん〕>
(a) 因・縁・果の法則、存在の真相を否定すること。
5) <見取見〔けんじゅけん〕>
(a) 存在の真相を知らないのに、自分の見方や考え方を絶対視すること。
6) <戒禁取見〔かいこんじゅけん〕>
(a) 苦行、行動への執着のこと。
v. 根本煩悩は、<分別起>と<倶生起>に分けられる。
1) <分別起〔ぶんべつき〕>の煩悩
(a) 成長過程の中で習得する後天的な煩悩のこと。
(b) 間違った思い込みの性質が強いため、それに気づけば消える。
2) <倶生起〔くしょうき〕>
(a) 本能的に持っている先天的な煩悩のこと。
3) 十根本煩悩との関係
(a) <分別起>のみ…疑、邪見、見取見、戒禁取見
(b) <分別起><倶生起>両方…貪、瞋、癡、慢、薩迦耶見、辺見
善
i. <善>とは、私たちがどのように生きればよいのかを、心作用の面から答えようとする心所のこと。
ii. <善>の心所は、十一に分析される(信、慚、愧、無貪、無瞋、無癡、勤、軽安、不放逸、行捨、不害)。
iii. 唯識での<善>は、「私という個の存在をたすけ、私を幸せにしてくれるもの」ということ。
iv. <信〔しん〕>とは
1) 澄み切った清き<こころ>のこと。
2) 認識という知的要素を含むもの。
3) <信>=<知(認識)>は、インドの代表的な<信>の定義。
4) 知・情・意の全体を包み込んだ、全人格的な清浄である。
5) 真の<信>とは、「仏(如来)と我と一体」「信じる主体と信じられる対象とが一体」にある。
6) 自分が何か別のものを信じることではなく、自分自身の存在を信じ、引き受け、頂戴する。→仏凡一体の境地
7) 真の<信>に開眼し、その真理を深く明晰に認識することに、深い<信>がある。
8) 人間の認識は全能ではないが、認識を離れて<信>はない。つまり、「人間認識の限界」と「それを超えたもの」とが交錯し出会う一点が<信>である。
v. <慚〔ざん〕>とは
1) 内面的(自分の良心、真理、正義)な恥の自覚。
2) 『大乗荘厳経論』には「慚ある者は不退なり。退は羞恥すべきが故なり。」とある。それは、自分に恥じることを知る者は後退することはないということ。後退に勝る恥はないし、後退は自己によってのみ自覚されるものだからである。
3) <こころ>の底に言い訳をする自己防衛の自我があると、そこに<慚>はない。<慚>は自己防衛本能が砕かれたところにある。
vi. <愧〔き〕>とは
1) 外界(人と人)との関係に依存した恥の自覚。(世間体など)
2) ベネディクトは『菊と刀』で、日本人の倫理の基盤は人目を気にすることで、それは内面性を伴わない程度の低い倫理だと批判している。
vii. <慚〔ざん〕>と<愧〔き〕>
1) <慚>があれば必ず<愧>もある。しかしその逆はそうとは限らない。故に、<慚>がもっとも大切である。
2) <慚><愧>は、深まって<懺悔>になる。本当にはじるには、<我>の粉砕が必要である。
viii. <無貪〔むとん〕><無瞋〔むしん〕><無癡〔むち〕>の<三善根>とは
1) <三善根〔さんぜんこん〕>は三大煩悩の反対で、<我>に基づかない。
2) <無貪>とは、本当の自分以外のものは自分のものではないと自覚し、「むさぼりのない」こと。
3) <無瞋>とは、気に入らないことがあっても腹を立てず、気まま(自我)な怒りをもたないこと。
4) <無癡>とは、ものの道理に明るい理解を持つこと。愚かでないこと。
ix. <勤〔ごん〕>とは
1) 善の真理の向かって進む<こころ>のすがたのこと。(心の精進)
x. <軽安〔きょうあん〕>とは
1) 修行に打ち込んでいるときの、軽やかな<こころ>の状態のこと。
xi. <不放逸〔ふほういつ〕>とは
1) 自分の好みや考えにとらわれず、自分を戒めながら善(本当の自分)に向かって進んでいくこと。=<精進><三善根>
xii. <行捨〔ぎょうしゃ〕>とは
1) 好き嫌いを離れた平静な境地のこと。(すべて捨てる)
2) 真の<善>は、無功用にあり自然にある。=無条件の愛
xiii. <不害〔ふがい〕>とは
1) 相手を傷つけず、相手への思いを忘れないこと(対立しないで融和すること)。=無条件の愛
2) 慈悲とは、無瞋と不害のこと。(慈=無瞋、悲=不害)
xiv. <善>のまとめ
1) <善>には、<有漏善>と<無漏善>がある。
2) <有漏><無漏>の違いは、利己性があるかどうか。
3) 凡夫の善は、わが身のためにする<有漏善>に過ぎない。
4) 仏・菩薩は、<我>を超えて<平等性智>の末那識に転じるため、<無漏善>になる。
別境
i. <遍行>と同性質と考えられていたが、徐々に区別され、<別所>の五心所(欲、勝懈、念、定、慧)に分類された。
ii. 前五識、第六意識と共働するが、<慧>のみは、第七末那識とも共働する。
iii. 五心所それぞれ対象が異なり、そのときに応じて単独で、二あるいは五全部が働く。
1) <欲>→<所楽の境>=ねがわしい対象
2) <勝解>→<決定の境>=確定的な対象
3) <念>→<曾習の境>=以前に経験したこと
4) <定><慧>→<所観の境>=深い智慧で捉えた対象
iv. <欲〔よく〕>とは
1) 自分が知りたいと思う何かを知ろうとするときの一番基底の働き。
2) 「精進」の原動力になる。
3) <別境>の欲は、第六意識でコントロール可能。
4) 貪欲⇔善法欲
5) <無欲>とは、欲に拘束されないこと。精進努力して到達すべきところ。
6) 放棄するのではなく、「捨てて捨てない、捨てないで捨てる」というのがよい。
v. <勝解〔しょうげ〕>とは
1) 対象を明確に判断すること。
2) 認識に確実性が増すが、認識が固定化されぬよう気をつける。
vi. <念〔ねん〕>とは
1) 過去の経験や記憶を忘れない心作用のこと。
2) 善悪いずれにも働き、善→<正念>、煩悩→<失念>と呼ぶ。
3) 深層にまで届く記憶をいう。
4) 「明記不忘」とは、はっきり記憶して忘れぬこと。
5) 「短い時間」という意味もある。=刹那
(a) 「阿弥陀如来を一心不乱に信じる刹那の心が、往生浄土の原因となる」=
<一念業成〔いちねんごうじょう〕>
(b) 「ひとつの思いの中に宇宙のすべてが含まれる」=<一念三千>
vii. <定〔じょう〕>とは
1) <こころ>の集中のこと。
2) 日常生活で見られる<生得定>と、生まれながらに持っている性質を磨き上げ練り上げていく<修得定>がある。
3) 別の呼び名として、<禅定><静慮><三昧><止><心一境性>がある。
viii. <慧〔え〕>とは
1) 是非善悪をえらび分けること。=簡択断疑〔けんじゃくだんぎ〕
2) えらび分ける段階を<慧>、はっきり決断する段階を<智>という。
3) <聞・思・修の三慧>
(a) <聞慧〔もんえ〕>とは、仏陀の教えを聞くことによって会得する簡択の力のこと。
(b) <思慧〔しえ〕>とは、思索することにより得られた簡択の力のこと。
(c) <修慧〔しゅえ〕>とは、実践によって自得した簡択力のこと。
4) 簡択の眼力が、その人の生涯を決めていく。
5) 慧眼を磨き、慧力を養うことが、<定>を練ることと一体になり、修行の肝心要となる。
ix. <別境>のまとめ
1) <別境>の五心所は、すべて善悪どちらにも働く。
2) <別境>は、善の方向へと向かって説かれている。→<欲>を「勤の依」、<定>を「智の依」としている。
3) <勤〔ごん〕>=<精進>
4) 悟りを開くと、五心所が、末那識・阿頼耶識とも共働する。
5) 悟りを開くと、末那識・阿頼耶識どちらも<善>の性質になる。
遍行
i. <こころ>(八つの識)が動くときには、いつも動いている五つの心理作用のこと。
ii. <触〔そく〕>とは 《受》
1) 「接触すること」で、すべての認識の根元に必ずあるもの。
2) 分別(<根>=身体的器官、<境>=対象、<識>=認識機能の三つを接触和合させ、もとと変わった状態になること)するときに働く心の動きのこと。
3) <根><境><識>が接触融合すると、元と違った状態として認識が成立する。これを<変異分別>という。
iii. <作意〔さい〕>とは 《受》
1) <こころ>が積極的に働き、注意を向け始めること。
2) 美しい花に目を向けたり、雨音に耳を傾けたりするような、日常的な<こころ>の立ち上がりのこと。
3) <触>との働きの前後関係は微妙である。
iv. <受〔じゅ〕>とは 《受》
1) 環境世界を受け入れるときに持つ様々な<こころ>の反応。
2) <触><作意>で外界に接触し、情報を受け取ったときに動く「感情」のこと。
3) <受>は五つに分けられ、<五受>という。
(a) ①苦受、②楽受 …感覚的、身体的反応
(b) ③憂受、④喜受 …感情的、精神的反応
(c) ⑤捨受 …身心の反応を共通に含む(空)
4) <五受>は、外界とのかかわりを、身的一面と心的一面に分けている。
v. <想〔そう〕>とは 《想》
1) ①自分の<こころ>で対象を捉え、それに対して独自の心象・イメージ映像を作り上げること。
2) ②対象を、概念化すること。
3) 第六意識(感情・知性・意識)とともに働く。
4) 言葉とは「ある名」であり、それ以上のものではない。
vi. <思〔し〕>とは 《行》
1) 行動の意思決定。原動力。
2) <思>の三分析とは
(a) ①<審慮思>とは、物事をいろいろ考えること。
(b) ②<決定思>とは、それをはっきり決める決断。
(c) ③<動発思>とは、それを行動に移す力のこと。
3) <動発思>で起こされた行動のことを<業〔ごう〕>という。
4) <業>の三業とは
(a) ①<身業>とは、自分の体で行う行為のこと。
(b) ②<語業>とは、しゃべる行為のこと、言葉。
(c) ③<意業>とは、<こころ>の中で思うだけのこと。
5) <身・語・意の三業>の根源は、すべて<思>(思考)である。
6) 如来との出会いは、般若の智慧による。
7) 智慧とは、<こころ>がもっとも明瞭に働いていること。
8) <こころ>が働くところに<思>の働きもある。
9) 自分の存在の根源は、如来により賜ったもの。
10) 己の<思>は如来の<思>である。
11) 如来より授かった生命を最高に生きねばならぬ。
vii. <遍行>のまとめ
1) 私たちの認識は、受動的ではなく内側からの積極的な働きかけにより成立する。
2) <受>は感情的な一面、<想>は知的領域、<思>は意思・意欲が動いている。
3) <遍行>の心所は、阿頼耶識とも共働する。
(a) 過去の<業>による経験や環境世界を対照的に捉え、働きかけるから。