i. <こころ>(八つの識)が動くときには、いつも動いている五つの心理作用のこと。
ii. <触〔そく〕>とは 《受》
1) 「接触すること」で、すべての認識の根元に必ずあるもの。
2) 分別(<根>=身体的器官、<境>=対象、<識>=認識機能の三つを接触和合させ、もとと変わった状態になること)するときに働く心の動きのこと。
3) <根><境><識>が接触融合すると、元と違った状態として認識が成立する。これを<変異分別>という。
iii. <作意〔さい〕>とは 《受》
1) <こころ>が積極的に働き、注意を向け始めること。
2) 美しい花に目を向けたり、雨音に耳を傾けたりするような、日常的な<こころ>の立ち上がりのこと。
3) <触>との働きの前後関係は微妙である。
iv. <受〔じゅ〕>とは 《受》
1) 環境世界を受け入れるときに持つ様々な<こころ>の反応。
2) <触><作意>で外界に接触し、情報を受け取ったときに動く「感情」のこと。
3) <受>は五つに分けられ、<五受>という。
(a) ①苦受、②楽受 …感覚的、身体的反応
(b) ③憂受、④喜受 …感情的、精神的反応
(c) ⑤捨受 …身心の反応を共通に含む(空)
4) <五受>は、外界とのかかわりを、身的一面と心的一面に分けている。
v. <想〔そう〕>とは 《想》
1) ①自分の<こころ>で対象を捉え、それに対して独自の心象・イメージ映像を作り上げること。
2) ②対象を、概念化すること。
3) 第六意識(感情・知性・意識)とともに働く。
4) 言葉とは「ある名」であり、それ以上のものではない。
vi. <思〔し〕>とは 《行》
1) 行動の意思決定。原動力。
2) <思>の三分析とは
(a) ①<審慮思>とは、物事をいろいろ考えること。
(b) ②<決定思>とは、それをはっきり決める決断。
(c) ③<動発思>とは、それを行動に移す力のこと。
3) <動発思>で起こされた行動のことを<業〔ごう〕>という。
4) <業>の三業とは
(a) ①<身業>とは、自分の体で行う行為のこと。
(b) ②<語業>とは、しゃべる行為のこと、言葉。
(c) ③<意業>とは、<こころ>の中で思うだけのこと。
5) <身・語・意の三業>の根源は、すべて<思>(思考)である。
6) 如来との出会いは、般若の智慧による。
7) 智慧とは、<こころ>がもっとも明瞭に働いていること。
8) <こころ>が働くところに<思>の働きもある。
9) 自分の存在の根源は、如来により賜ったもの。
10) 己の<思>は如来の<思>である。
11) 如来より授かった生命を最高に生きねばならぬ。
vii. <遍行>のまとめ
1) 私たちの認識は、受動的ではなく内側からの積極的な働きかけにより成立する。
2) <受>は感情的な一面、<想>は知的領域、<思>は意思・意欲が動いている。
3) <遍行>の心所は、阿頼耶識とも共働する。
(a) 過去の<業>による経験や環境世界を対照的に捉え、働きかけるから。
心所有法(六位五十一の心所)
a. 唯識は<こころ>を<心王>と<心所有法しんじょうほう>の二つに分ける。
b. <心王>は「心の主体」の面、<心所有法>は「こころの働き」「心理作用」の面である。
c. <心所有法>とは
i. <こころ>の探求といえる。
ii. 人間の<こころ>の実態を細かに分析する心理分析でもある。
iii. 「心に所有されるもの」「心に属するもの」という意味。
iv. <心王>と和合して離れないもの=<相応法>
d. <十二縁起>とは
i. 瞑想によって観ぜられた真理のこと。
ii. 生老死の苦悩の根源を掘り下げていき、十二の段階(老死・生・有・取・愛・受・触・六処・名色・識・行・無明)を経て、最後に<無明>に到達された教説である。
iii. 仏陀の教説は、<無明(=心所)>の把握から始まった。
e. 多種多様な<心所>の説
i. 仏陀の滅後、<心所>の分類分析も精細になった。
ii. 唯識は、<六位四十六の心所>をベースに、<六位五十一の心所>を論じた。
f. <六位五十一の心所>とは
i. <遍行〔へんぎょう〕>=触・作意・受・想・思
1) <こころ>と一緒に、いつでもどの識とも働く心作用で、五つある。
ii. <別境〔べつきょう〕>=欲・勝解・念・定・慧
1) 別々に働く。
2) 前五識・第六意識とのみ共働する。
3) ただし、えらび分ける<慧>だけは、末那識と共働する。
iii. <善>=信・慚・愧・無貪・無 ・無癡・精進・軽安・不放逸・行捨・不害
1) 普段から心がけるべき方向。
2) <無明>に対応する善き慧(自己と自我を分けて考える)の働きを独立させた<無癡>が加えられている。
iv. <煩悩>=貪・ ・癡・慢・疑・悪見
1) かき乱し、悩ませる働き。
v. <随煩悩>= ・恨・覆・悩・嫉・ ・ ・ ・害・憍・無慚・無愧・ ・惛沈・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知
1) <煩悩>が根元となってさらにはっきりした形で現われたもの。
2) 基本的に<煩悩>と同じ動き。
vi. <不定>=悔・眠・尋・伺
1) 善にも悪にも働く<心所>。
g. 自身を知れ
i. 唯識は、「自心を知る」ことである。
ii. ただ知っているだけでなく、自分自身の内にある<煩悩>そのものを取り除く志気が無ければいけない。
唯識の八つのこころまとめ
1) 唯識は、人間を<八識>として分析し把握する。
2) <能変>は、深層から表層への方向へ流れる段階で使われるが、人間の内面が能動的に認識の内容を変えていくことをあらわしている。
(a) 阿頼耶識によってその人の世界が作り変えられる。
(b) 末那識によって自我中心的に変えられる。
(c) 第六意識・前五識によってものの見方、考え方、見え方、聞こえ方、つまり外界をも変えられる。
3) 八識の自己を、己のうちに自覚すること。
4) 自己認識の軸は、第六意識。
第四節 前五識
(1) 人間のこころの最前線
(a) <前五識>とは、眼・耳・鼻・舌・身のことで、感覚作用である。
2) 前五識の対象
(a) 五識にはそれぞれ対象領域があり、特に<耳識>の対象である<声境>は、以下に分類される。
(i) 第一レベル…<有執受>=生物、<無執受>=無生物
(ii) 第二レベル…<有情名>=意味のある言葉、<非有情名>=意味の無い言葉
(iii) 第三レベル…<可意>=快い、<不可意>=不快
(b) <声境>は上の第一~第三レベルの組み合わせから成るが、最終的に可意・不可意という主観的な受け取り方となる。
(c) 色はほとんど無情だが、音は有情のものが多い。
(d) 視覚よりも聴覚のほうが、情感に訴えることが強い。
(e) 外のものを受け取る感覚作用は、受身的だけではない。
3) 前五識の順序
(a) 五識の順序は、①<遠〔おん〕>②<速〔そく〕>③<明〔みょう〕>④所依の根の上下の違い がある。
(i) ①<遠>とは、遠くの対象を知ることのできる五識の順序。眼→身になればなるほど対象が狭まってくる。眼・耳の二識を<離中知>といい、鼻・舌・身の三識を<合中知>という。
(ii) ②<速>とは、認識の速さをいう。これも、<遠>同様に眼→身の順序で遅くなっていく。
(iii) ③<明>とは、明瞭度のことをいう。これも、<遠>同様に眼→身の順序で遅くなっていく。
(iv) <所依の根の上下の違い>とは、身体の器官での、眼→身の位置のことである。
(b) <五欲>とは、色・声・香・味・触の五境に執着し、それに血眼になってしまうこと。
(c) P186五欲について 「釈氏要覧」の一節
4) ものを知る入り口と出口
(a) 知性とは、感性の中から意識付けされたものである。
(b) 感性によって手に入れられたもののみが、知性を形成する(入り口)。
(c) 意識が前五識を支配し、対象を選びわけ、能動的に率直に表に表す(出口)。
(d) <前五識>は、入り口であり出口である。
(e) 感覚は変わるものではないが、感性は第六意識によって左右される。
5) 誤魔化しの通用しない前五識
(a) <前五識>が働くときは、その人の全人格が同時に働き、支えている。
(b) <前五識>と<阿頼耶識>は共通点がある。
(i) <無覆無記>である。
(ii) 対象の捉え方が直感的である。
(iii) <器界>…ものの世界を対象とする。
(c) 表層の自己(前五識)と深層の自己(阿頼耶識)が直結している。
(d) 「露堂々〔ろどうどう〕」…隠そうとしても、何事も堂々と現れ出ている。という意味。
(e) 表層はそのまま深層を現している。深層の赤裸々な姿が、表層の自分である。
(f) 最も表層の<前五識>が、最も深層の<阿頼耶識>、深層の我執・我欲の<末那識>、知・情・意の<第六意識>などの総体的あらわれである。
6) <識>から<智>への転換
(a) 凡夫のこころが智慧に開けることを、<転識得智〔てんじきとくち〕>という。
(b) 「真理がわかる」ということは、<無常><無我>のことわりがわかるということで、<第六意識><末那識>が智慧に開けることである。
(c) 根源的に自分が変わることを、<仏果位>という。
(d) 最終的に<阿頼耶識>が転識得智されることで、<前五識>の認識する世界が変わる。
(e) <前五識>は、露骨に自分が表れる領域。
自己改造の力となる能力
1) 第六意識の性質
(a) 私たちが認識するあらゆる対象を縁ずる<広縁の意識>である。
(b) 善・悪・無記のいずれにも働く。
(c) ものの真相を観る。
(d) 阿頼耶識と末那識という<こころ>を所絵(依り所)とし、そこを基盤として働いている。
2) 第六意識をより深くせよ
(a) ものを観る主体<観の体>は、内観のことである。
(b) <聞〔もん〕・思〔し〕・修〔しゅ〕の三慧>とは、聞、思、修によって得られた智慧のこと。
(i) <聞>は、仏法を聞くこと。
(ii) <思>は、聞いたことを自分にふり当てて省察すること。
(iii) <修>は、実行すること。
(c) 三慧によって、より深く意識を練ることができる。
3) 人生逃げ腰であってはならない
(a) 第六意識は、対象を造り変えたり、外から入る情報を跳ね返したりする働きがある。
(b) 自分自身を内観し、深く反省するのも意識で行う。
(c) 内観で不完全な自分を自覚することで、造り変えることができる。
(d) 自分を<所観>(客体視)し、再創造することで、<能観>(主体)も変化してくる。これが第六意識の自己改造である。
(e) 第六意識が自分を変えようとしない限り、変わらない。
(f) 第六意識は醜聞をうみ、妄想を描かせ、文化を創造し、環境をも克服していく。
(g) 五倶の意識、不倶の意識ともに練磨していくことが大切。
(h) 第六意識の修行が、<我>を増長するものではいけない。
第六意識
i. ソクラテスは、自分がすべての悪徳を背負っているのを知っていた。
ii. 悪徳を転換させるこころ
1) 第六意識によってのみ、自分を変えることができる。
2) 第六意識は、大きく分けて<五倶〔ごく〕の意識>と<不倶〔ふく〕の意識>がある。
3) <五倶〔ごく〕の意識>とは、五識の感覚とともに働く第六意識のことである。
4) <五倶の意識>の二分類
(a) <五同縁〔ごどうえん〕の意識>…感覚を判断したり思考したりする「知覚」の働きである。(受)
(b) <不同縁〔ふどうえん〕の意識>…感覚から連想する働きである。(想念)
5) <不倶〔ふく〕の意識>とは、五識(感覚)とは関係なく動く意識のことである。
6) <不倶の意識>の二分類
(a) <五後の意識>…<不同縁の意識>がさらに広がった連想の一種のこと。
(b) <独頭〔どくず〕の意識>…完全に五識とは関係なく働く意識のこと。外界とのかかわり無く、独自に働く。三分類される。
(i) ①<独散の意識>…意識が独自の領域に動き、心ここにあらずの状態のこと。不安から働くと妄想に、愛から働くと想像力になる。
(ii) ②<夢中の意識>…夢のような状態のこと。
(iii) ③<定中の意識>…想像力や夢中の状態を超え、夢か現実かわからなくなってしまう無の状態のこと。不安から働くと幻覚も。
我欲から慈愛への転換
1) 末那識は仏陀にもある。それを<已転依〔いてんね〕の末那><出世の末那><無染汚〔むぜんま〕の末那>と呼ぶ。
2) <已転依>とは、悟った後ということである。
3) 仏陀も凡夫も、人間としての基本的な構造は同じであるが、悟った後の末那識は、真如と他のすべてのものが対象となる。
4) <真如>とは、「ありのままの姿」「永遠不変の真理」である。
5) 末那識が「真如を対象とする」ということは、
(a) 空なる本当の自己が見えてくること。
(b) それまでの自画像が虚像であり、幻想・妄想に過ぎなかったという気づき。
(c) 無我・空への覚醒と、虚像の自我の崩壊によって、自分のみに向けられていた<こころ>が広く拡大し、他の存在をも受容するようになること。
6) 末那識の内容が、反価値的な利己性のエネルギーから、愛に転換することを、<平等性智〔びょうどうしょうち〕>という。
v. 我執を投げ捨てよ
1) 末那識の内容の転換は、<我>の思量を<無我>へ変えることであり、虚像の自我への依存から、真実の自己への帰還ともいえる。
識の所依
1) 識の所依とは、何かを基盤とし、何かを依り所としている私たちのこころを捉えたものである。
2) <識の所依>は、①種子依、②倶有依〔くうえ〕、③開導依〔かいどうえ〕がある。
3) ①種子依とは
(a) <こころ>の働き(見方、考え方)は、種子に基づくものである。
(b) 種子は、<本有種子〔ほんぬ〕>と<新薫種子〔しんくん〕>に分けられる。
(c) <本有種子>は、先天的に身に具備するもの。
(d) <新薫種子>は、経験によって新しく蓄積するもの。
4) ③開導依とは
(a) 開避引導の略で、道を開いて後のものを引き出すこと。
(b) 今の<こころ>は、前の瞬間の<こころ>を依り所として働いているということ。
(c) 時間的な前後の関係であり、<こころ>の連続的な一面といえる。
5) 倶有依とは
(a) 倶有とは、「倶〔とも〕に有る」ということから、<倶有依>とは「同時にある依り所」ということである。
(b) 識相互の関係である。
(c) それぞれの識の倶有依は
(i) 前五識=①五根、②第六意識、③第七末那識、④第八阿頼耶識
(ii) 第六意識=①第七末那識、②第八阿頼耶識
(iii) 第七末那識=第八阿頼耶識
(iv) 第八阿頼耶識=第七末那識
(d) 人が生きていることの背後には、末那識が<倶有依>としてぴったり寄り添っている。
四煩悩と慧
1) 末那識とともに働く<心所>(心の作用)は、十八種類あり、特に大切なのが<四煩悩>と<慧>である。
2) 四煩悩とは
(a) 我癡〔がち〕
(i) 自分の本当の姿を知らないこと。(無明)
(ii) 知識が無いのではなく、当然わかるべきものの道理がわからない。
(iii) 暴流のような本当の自分が、作り上げられたゆがんだ姿態によって覆い隠されていることを知らず、ゆがんだ姿態を実体化して自分であると錯覚していること。
(iv) 自分の実相がわからないという消極的な一面。
(b) 我見〔がけん〕
(i) 自分の知っている範囲の姿が、自分のすべてだと思ってしまうこと。
(ii) 自我へのこだわり。自我があるから他人という観念にとらわれる。
(iii) 自我の幻想にこだわり、それを押し出してくる積極的な一面。
(c) 我慢〔がまん〕
(i) 自慢・高慢の気持ち。他人と自分を比較し、相手を侮る慢心である。
(ii) <慢>の心理を分析したものに<七慢>というのがある。
(iii) 七慢とは、①慢、②過慢、③慢過慢、④我慢、⑤増上慢、⑥卑慢、⑦邪慢である。
(iv) ①<慢>とは、無意識下にある「我」という観念により、相手に対抗してしまうことである。
(v) ②<過慢>とは、自分と対等または優れたものに対し、潜在的に自分のほうが良い、自分も同等にできると思うことである。
(vi) ③<慢過慢>とは、自分より優れたものに対して、自分のほうが良い、と段々高慢が高じてくることである。
(vii) ④<我慢>とは、自分にこだわり、自分のほうが相手より優れていると思い上がる気持ちのことである。(天狗)
(viii) ⑤<増上慢>とは、自分ではわかっていない境地を、証得したかのようにふるまうことである。
(ix) ⑥<卑慢>とは、自分よりはるかに優れた人に対し、「たいしたことは無い」と思う慢心である。
(x) ⑦<邪慢>とは、自分にまったく徳が無いのに徳があると思い込むことである。
(d) 我愛〔があい〕
(i) 自分のみを愛し続けること。他と調和しない。オンリーワンのうぬぼれ。
3) 自分の本当の姿を知らないから(我癡)、自分について誤った気持ちを持ち(我見)、高慢になったり(我慢)、うぬぼれ(我愛)を持ったりする。
4) 自慢話の底には、我癡・我見・我愛がひそんでおり、四煩悩は一体不離のようなもの。
5) <慧>とは
(a) 物事を選びわけ、はっきりと区別して決めること。
(b) 四煩悩に共通しているものは、自分と他とは別の存在であると分け、これこそが自分だと実体化し固定化する<慧>の働きである。
末那識 我執のこころ
1) 末那の語源は、インド語の「マナス」の音写で「思い量る」という意味である。
2) 末那識は、自分のことだけにこだわり思い量り、他を認めたがらない我執のこころ(=自我)である。
3) 末那識は、第六意識がなくなった無意識の状態(睡眠中、気を失っている)でも働いている。
4) 末那識は、個の人間として存在するための理由である。生きる力になる。
5) 第六識は善・悪・無記のいずれにも変化するが、末那識は常に<有覆無記>である。
6) 意識的に良いことをしていても、末那識の我執は常に働いている(常恒)。
末那識の要点
1) 我執は、私たちの視野や思考を偏ったものにする。
2) 我執は、潜在的に<こころ>のそこに働き続けている。
3) 我執は、真理や他の存在への暖かい自愛へと、視野広く転換することができる。