【筋再生】愛があれば筋肉は衰えない | Nature Communications | Nature Publishing Group

愛と言っても多くの概念がありますが、下記のような効果がある愛は限られています。
完全であり、純粋であり、どのような条件下にも左右されない受容の心は、愛という言葉でひとくくりにされた内の、ほんのひとつです。太極思想における内丹術などには、その愛に到達するための導引や行気、そして実践的な房中術など、経験と実証にもとづき深く研究されてきました。
このような愛の状態になると、人間の心身は多くの変化を起こします。仙人として有名な《老子》はタオの創始者として、このような愛に到達し、導引と行気、そして房中術の達人として伝説に残っています。
先人達は、今回論文で発表されたような現象を体験して、それを経験し実証して、その成果を後に残してきました。
感受性豊かな心身の基板を作る《築基》の修行から始まり、完全なる愛に向かい修行を進めていくのです。
《還虚》に到達した心身はその愛に溢れています。古式においての太極拳が《易筋行》として行われるのも、太極拳が導引法であり、その到達した精神に気を練って導いていくのが行気であり、そしてそこにある愛を基盤にして愛し合うことが房中術なのです。
そうすると、筋肉だけで無く、骨も衰えず、気も高まり、精はみなぎり、内丹を極めることができることは、タオでは当たり前であり、今回の論文もそれらのほんの一部を現代科学で証明したに過ぎません。しかし、多くの事が現在科学で証明されていく昨今、人間の潜在能力は古代から何も変わらず生き続けていることを明らかにし、又、逆に、多くの感受能力を失っている現代人よりも、本来の人間の潜在能力を豊かに使える古代の人間の経験学的証明は多種多様に展開されてきたということもわかります。
これらの愛を思い出すことこそ、私たちは人生を豊かに、健康に、決して壊れることの無い幸福の中で生き抜いていくための、たった一つの方法なのです。

【筋再生】愛があれば筋肉は衰えないブックマーク

Nature Communications

2014年6月11日

Muscle regeneration: All you need is love

オキシトシンというホルモンは、しばしば「愛のホルモン」と呼ばれるが、老化に伴う筋機能の低下を防ぐ作用もあることがマウスの研究で明らかになった。これがヒトでも確認されれば、骨格筋の老化を予防し、あるいは元に戻すための新しい治療法が得られるかもしれない。この研究結果を報告する論文が、今週掲載される。

引用元: 【筋再生】愛があれば筋肉は衰えない | Nature Communications | Nature Publishing Group.

なぜ一人ぼっちは健康に悪いのか?(Pouch) – Peachy[ピーチィ] – 毎日をハッピーに生きる女性のためのニュースサイト – livedoor ニュース

人間の本能には集団欲という本能がある。その本能が飢餓すれば不安になる。闘争に備える。危険に備える。アドレナリンが過剰にでる。健康に良くない。
しかし、本来の集団欲は人間同士の集団に限ったものでは無い。それを知れば全てが解決する。
一挙に集団欲にある飢餓はなくなり、いつも満たされるのである。孤独とは何から孤独なのか?
このテーマを研究すれば全てが見えてくる。

なぜ一人ぼっちは健康に悪いのか?

人と人との結びつきが希薄になったと言われる現代。「孤独のもたらす健康リスク」についての研究が、近年盛んに行われるようになっています。例えば2010年には、「行き過ぎた孤独は日に15本喫煙するのと同じくらい危険」という研究結果も。

「独りが好きな自分には関係ない」と安心している方も、今回お届けする話題は他人ごとではないかもしれません。最新の研究で「社会的ネットワークが減ると、孤独を気にしない人でも死に至りやすい」という統計結果が出されたのです。

■6500人を8年かけて追った最新の研究

研究報告を行ったのは、アンドリュー・ステップトウ(Andrew Steptoe)教授の率いる、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの疫学研究チーム。

彼らは2004~5年にかけて、6500人の「50歳以上の男女」を対象に、孤独度を測るアンケートを実施。家族や友人との接触度や、地域の集まりへの参加具合を観察したうえで、その後およそ8年もの間、各人の健康状態を追跡しました。

引用元: なぜ一人ぼっちは健康に悪いのか?(Pouch) – Peachy[ピーチィ] – 毎日をハッピーに生きる女性のためのニュースサイト – livedoor ニュース.

あきらめる

仏教では、諦めるとは、真理をあきらかにすることです。
四諦、諦観、諦念などがあります。

しかし諦めるとは、何かをしようとして、途中で諦めてしまう?

最初にしようとしたことを、途中で何かを諦めていないから、最初にしようとしたことを諦めた。

実際は諦めたように見えるが,本当は諦めていない。途中で諦めていない。

諦めるとは、明らかになること。

明らかになっていないのに、諦めるとは言えない。

明らかになるとは真理のことであり、無常のものではない。

無常のものは移り変わるので、明らかにならない。

諸行無常である。

だから何を明らかにするか?

それが問題である。

すぐに諦める子だとかよく言われる。すぐに諦めるのは良くないよと一概に子供に言う。

その子が何かを明らかにしてそれが、その子が明らかにしたことなら、その子は何かを見つけようとしたのであるから、諦めようとした行為は素晴らしいことである。

何も諦めないで諦める。

諦めないとは、条件である。ある条件下にあるから諦めた。

これは諦めていない。

条件に固執するから,やめただけである。

条件を諦めきれないからやめた。

これを諦めたという。そうではない。

諦めるとは、明らかになったことがあるから諦めたのであり、条件が諸行無常だと知れば、やめることもない。

条件に固執して、縛られる、諦めきれないからやめる。

諦めたという人は、諦めていない人でもある。

また諦めたという人は,諦めた人である。

このどちらも矛盾しながら存在する。

諦めるという言葉も、ここで空であることがはっきりするのである。

すぐに諦める子。・・・ほめ言葉になる。すぐに真理(ありのままのあたりまえ)に気づく子である。

空の中には何が入っているか?よくその色を観自在するのが良い。

生き生きとした純粋な快感

脳幹の周辺にある大脳辺縁系は、本能や感情と深く関係します。やる気などもここです。脳幹が活性すると、脳幹にある純粋意識がこの本能や感情に揺らぎを起こします。ここに生き生きとした純粋な快感が生まれます。

脳幹にあるDNAに薫習された情報、もっと深くにある、人間が存在した後もその前のビックバーンが始まった揺らぎからの情報も、あらゆるキーを解かれ開放されたとき、人間は万物と完全に一体化して生きることが出来ます。

一体ということは、空間も時間も全て自分と同じように感じるわけですから、予知能力などの能力も当たり前に有ります。

完全に無だったときから、揺らぎがおこり、その何かである情報と、その後原子や分子、無機、有機を経るあらゆる情報は、かたや土くれ、かたや人間となった今でも、深層の深層には同じ情報を共有しています。

太極拳や瞑想は人間の中にあるその情報に巡り会って、その感覚を思い出すためのとても優れたツールです。

無為自然。

してはいけないとこともないし、してはいけないこともないこともない。

無は有でないから無というなら、無は有でないという性質を帯びているから有である。

何もないという無を認識するには、有るという認識が必要である。有ることがないと言うことで無になる。いつまでたっても無は無にならない。

もし完全なる無が理解できれば、無為自然は理解できる。

内家拳には無極という思想がある。これはとても使える、フィードバック。

私には完全なる無という概念がある。理論と言ってもいい。

あるキリスト教の勉強会に参加した。

私は、キリスト教徒ではないが、いつものとおり思ったことを口にした。

無は神が作ったという言葉に対して、無とはなんですかとの問い。

無は無だとの答えであった。

無は無であるという時点で、無という概念で停止します。

無は相対性を帯びます。無を意識を持って説明すると、有があるから無があると言うことです。

絶対的な無は存在します。絶対性が身につくと、そこを基点にして存在できます。

これが、分かると、あらゆる事が無為自然になり、あらゆる不安が無くなり、毎日が楽しくて仕方が無くなり、いつ死んでも悔いが無くなり、思ったことが思ったとおりになり、健康も若さも「正常」な人間の年齢や寿命どおりになります。

無為自然。とても簡単で、単純です。

瞑想太極拳や、執筆活動、社会活動を通じて多くの人に無為自然への誘いをしていきたいと考えています。

実践と理論

私の場合は理論よりも先に、幼い頃からの実経験での問題解決からの弁証法的内観による発見が先でした。

その時にはまだ知らない唯識論に説かれている四分が自分の中で動いていました。気づきませんが。

あらゆる事が全て問題解決と再創造に転換したのは、30才の頃の母の死が決定的だったでしょう。

その後、弁証された理解をもっての実生活による実践が、あまりにも今までと違ったとても軽いというか、スムーズで不安のない、喜びあふれる世界に変化したため、それを多くの人に伝えたくなり、客観的な弁証として精力的に多くの思想家や政治家、精神科医や心理学者、宗教家、学者などと会って、持ち前の率直さをもって討論しました。半ば仕事のようにです。

その実証を本などを読み、全てに通じる普遍性を探り、自分が発見した理解を検証していきました。本の内容はすんなり入ってくると言うよりも、「そのとおり」という感覚が主でした。すでに理解していることを言葉として表現することに役立ちました。

唯識論や般若心経、形而上学、哲学、心理学、大脳生理学、太極拳論その他もろもろと私の経験による発見と普遍性の通じるところでした。

今は、理論は全て人間の存在のという本体からの作用と考えています。

多くの人の人間の存在の中にある本質を見つけ出すことを、普遍的な楽しみとして、見つけ出した人と共有し実社会に役立てていくことを出来るはずだと思っています。

人間は善悪を知る木の実を取って食べることで堕落した。

聖書からの抜粋です。
全くそのとおりです。この聖書の文言を否定するキリスト教系の新興宗教もあるようですが、この宗教も陥っているように、人間がこの善悪をはかるところから堕落したというのであれば間違い有りません。
しかし、堕落とはなんでしょうか?
何から堕落したのでしょうか?そうです。善悪などを知ることも、又はかることもない、無為自然な世界から堕落したのです。
善悪が生まれたときに、この世に神とサタンが生まれたと言っても過言ではありません。
神が生まれたと同時にサタンが生まれたのでしょう。
もともと、真理の世界には、そんなものはいません。聖書も実はそう言っているのです。