認識、誠実、責任とは?

 認識、誠実、責任という大切な概念があります。自分の気持ちを認識して、誠実に自分の気持ちとして責任もって話すことです。

存在を利用する人は、存在を利用された人と同じ道を歩んできたわけでもないのに、わかる気がすると言うことで認識し、誠実に自分の気持ちを話すのですが、責任がありません。要は、自分の利益のための認識だからです。

自分の利益のためなら、人の不安や愛までもあたかも自分のもののように利用することが、無責任なのです。

人はそれぞれ自分のの道を選んで生きている素晴らしい存在です。

人それぞれの人生における価値観は様々ですが、それははかり知れません。それであれば、その人の人生における経験を感じるとき、自分の価値観で認識するのではなく、その価値観は普遍性を持ってのみ認識するべきものです。なぜなら、その個性はその人のものであって、どの様な認識に立っての価値観かは、その人の尊くて厳かで侵しがたい、その人だけの認識であり、この世に同じものは一つとしてありません。完全なる個性です。尊厳有る個性です。もちろんそれは一体という普遍性の基にあるのです。その個性で、たの個性を認識することが、戦争や環境破壊、憎み合い、ねたみなどのあらゆる分裂を引き起こすのです。

地面からキノコが出るように、出る地面は同じであるが、キノコ地震はそれぞれ同じものはありません。地面の認識は共通してあり、そこに誠実で責任を持てばいいのです。自分という個の部分の認識と誠実・責任で他をとらえることは、他の尊厳を損なうことになるのです。例え同情であってもです。

それぞれ違う経験で尊厳有る人生を歩んでいます。映画「嫌われ松子の一生」のエンディングを見たらそれを感じるはずです。

単に自分が不安から逃れるために、人の尊厳を踏みにじることはやめるべきです。恥を知るべきです。世の中でもし融合と調和の存在そのものに善という概念を持たせるなら、相対性として悪という概念を与える事ができるのは、唯一尊厳有る存在を踏みにじることです。

私たちはあらゆる存在の尊厳だけは守ります。認識は普遍性を持って行い、誠実は本質に誠実であり、責任は全体に対してです。認識を自我だけで行い、誠実は自我だけに従い、責任は自我だけに持つ。結局は自我以外に誠実でなく、責任もありません。世の中に蔓延する、認識・誠実・責任は表面に見えてる部分では言葉として同じでも、中身は全く違うものです。

尊厳はもちろん人間だけでなく、誰のものであれ、それこそ一体である自分だからです。その為ならあらゆる力を使うでしょう。

私たちの活動はその為にもあります。誰の存在も誰かの自我を損なう不安逃れのためだけにで利用されるようなものではありません。

存在の尊厳

 人の気持ちを考えることは素晴らしいことです。ただそれも不安か愛、どちらに基づくかによります。

不安の場合。

例えば、心を傷つけられるようなことを誰かに言われた時。

そのようなことを言われたとき、気持ちが落ち込んだから、他の人も同じ様なことを言われた場合は、その不安や憤りはきっと私と同じはずという意識で、自分の落ち込んだ気持ちを正当化するために、他者を利用している場合です。

その場合、他者の気持ちをあたかも自分と同じであるかのように利用するのはその存在の本質を犯すことなのです。

この様な一見思いやりのような行為も不安から始まると、自分の不安を解消するための道具でしか無く、他者が同じような場合でも不安や憤りを覚えず、落ち込まない存在であったとしても、それを自分と同じように考えることによって、自分の不安を解消しようとすることになります。

それが、不安による同情、又は思いやりなのです。

「同情するなら金をくれ」という台詞は、彼女は強く生きようとしている自分の存在を、その人の虚栄心や不安逃避という存在に置き換えようとする同情に対して、自らの主観性により自然に発した台詞であり、多くの人の深層に共感を生んだのです。

その人の存在はその人の尊厳有る部分です。

その存在を利用する人は、私はこんな気持ちですと誠実に述べないで、他者の存在の尊厳まで利用するのです。

他者がそういう気持ちで有ることはその人の気持ちです。自分の不安を解消するために人の存在を利用することはとても恥ずかしい行為です。

遊戯三昧(ゆげざんまい)

梁塵秘抄 巻第二 四句神歌 雑

遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん

遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ

大意……遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。遊んでいる子供の声を聴いていると、感動のために私の身体さえも動いてしまう。

引用元: 遊びをせんとや生まれけむ.

年金70歳引き上げで45歳以下は払い損、高齢世代は“年金天国”NEWSポストセブン – エキサイトニュース

年金70歳引き上げで45歳以下は払い損、高齢世代は“年金天国”NEWSポストセブン – エキサイトニュース.

年金問題は、AMRMの活動の社会的問題点の一つとして、何年も前から提言してきたことの一つです。

これらの問題解決の糸口が自立厚生にあるのです。

年金などはもともとなかったものと考えてみて、その上であるものでもあるという考えを持ってみると、本来の生き方が見えてくるかも知れません。

 

高嶋政伸、離婚…モデル・美元と結婚わずか3年で – 芸能 – 最新ニュース一覧 – 楽天woman

http://woman.infoseek.co.jp/news/entertainment/story.html?q=20110713hochi025

考え方や、性格が違うのが当たり前。

人生が違うのだから違って当たり前。こんな事もわから無いで、愚かすぎます。

どちらかの考え方の共通部分が一致したところだけで結婚生活を送るとでも思ったのでしょうか?

相手の人生やその人の個性はその人の独自のものです。その考え方が違うから性格が違うからと言って、結婚して離婚するのも自由でしょう。

しかし、そんなことは初めからわかっていたこと。それとも自分の考えとその生き方に全て合わせろと、そうでないと俺は気にくわないとでも?

どこかの国のまるで独裁者ですね。

当たり前の顔をして、私は考え方や性格が会わなかったので離婚しましたと、一人前の顔をして出てくる情けないかわいそうな人、それが高嶋政伸さんでしょう。

彼は早く、少しでも良いから自分の愚かさを覚り、生きていってほしいものです。残念ですね。

自殺率第五位の日本・いやもっと深刻である

自殺率は、旧ソ連からの独立国が1位から4位、そして7位を占めている。日本は5位。

社会不安の高まる国々の自殺者が増えるのは理解できるが、その社会不安もなく平和な日本が5位であるということは、理由無き自殺大国と考えられる。しかし理由がないわけではない、第8位に実は韓国があるのである。

一つの仮説として、儒教を考えてみてはいかがだろうか?儒教はとても難しい教えである。陰と陽を完全に分離して考えてしまうと間違えてしまうが、そうすることにより、完全な管理機能と、統制機能を持つことができる。そこに実は観察するところがあるのである。

平和で裕福な日本、社会も安全であるという中で、最も危険な理由が潜んでいる。人が生存することを放棄せざるを得ない何かが潜んでいる。

例えば儒教でいう「礼」、これを真に解釈すると陰陽は分離しないが、完全に分離させて解釈すると、礼が正義であり、無礼が悪になる。礼にこだわらなければならなくなる。ところが「礼」は真の誠を人間として表現することであるから、誠であれば「礼」である。

ここに記せば長くなるが、もう少し自殺について考えてみたい。

1 リトアニアの旗 リトアニア[4] 58.5 8.8 31.5 2009
2 ロシアの旗 ロシア N/A N/A 23.5 2010
3 ベラルーシの旗 ベラルーシ [5] N/A N/A 25.3 2010
4 カザフスタンの旗 カザフスタン 46.2 9.0 26.9 2007
5 日本の旗 日本 35.9 14.4 24.9 2010
6 ガイアナの旗 ガイアナ 33.8 11.6 22.9 2005
7 ウクライナの旗 ウクライナ 40.9 7.0 22.6

又ウクライナにはチェルノブイリがあり、自殺率の上位の国はその周辺国であるのも、何か意味があると考えているものもいる。

受容と迎合の違いを教えてください。

受容することは愛だといわれていましたが、愛は受ける心ですね。

迎合とは相手の気に入るように努めること、相手に合わせて自分の意見や態度を変えることだと理解しています。

権力に迎合するとかいうことでとてもよくわかりますが、確かに受容するとは、権力を受容するとは言わないですよね。

受容とはどのような事なんでしょうか?愛と漠然といわれてもよくわかりませんでした。

よろしくお願いいたします。