1) 「種子生現行」とは、蓄えられた種子―経験が、その人の人柄、その人の環境世界となって現れることである。
2) 外界は、阿頼耶識(深層)の指示で見ているので、人によって変わる。
3) 自分の知っている感覚でしか外界を見ていないのだから、それが絶対ではない。
4) 外界の認識は、深層にある人柄、知識、教養、趣味、嗜好、無意識に身についた文化的伝統、価値観などの総体的な人格によって限定されている。
5) 万法不離識〔まんぼうふりしき〕
(a) 阿頼耶識に蓄えられたものによって、目の前のものが見えたり見えなかったりすること。
(b) 自分の<こころ>によって、外界の見え方が変わってくること。
6) 三界唯心〔さんがいゆいしん〕
(a) 自分の意思とは無関係に、阿頼耶識に蓄積しているものにより、勝手に解釈してしまうこと(=妄想)を「因縁変〔いんねんへん〕」という。(例 蒟蒻問答)
(b) 「三界唯心」とは、阿頼耶識に蓄えられた根源に基づいたその人だけの心、解釈、価値観だけで相手を判断してしまうこと。
(c) 三界とは、欲界・色界・無色界(物質矢物質的な思いから解き放たれ、受想行識の四蘊のみから成る。)で、仏以外の全世界のこと。
7) 唯識無境〔ゆいしきむきょう〕
(a) 外界は、自分が客体化されたもの、対象化された自分である。※客体化…自分を客観的に見た実態のこと。
(b) 外界と自分<こころ>は境がない。
(c) 自分の<こころ>が外界に現れる。
(d) 目に見える世界=自分のこころ
(e) 「神は人間の内面があらわになったもの」(フォイエルバッハ)
8) 目前の事象を語ることは、過去の自己をも含む今日の自己を語ることである。
9) 共通の経験は共通の種子を薫習する。共通の経験や行為を共業(ぐうごう)といい、その種子を共業の種子という。
10) その人独自の経験・行為を不共業という。(=個性)
11) 自分の認識の限界を深く自覚することと、自己が変わることへの真摯な省察が大切。
12) 全人格的な深まりのみが、ものを見る目を深める。
阿頼耶識の第一の性質 現行薫種子〔げんぎょうくんしゅうじ〕
1) 私たちの行為は、身・語(口)・意の3面から捉える。
2) 阿頼耶識には、親や先祖、民族の長い歴史の行為までも蓄えられている。
3) 蓄えられている過去の行為の残影を「種子〔しゅうじ〕」と呼ぶ。
4) 「種子」が阿頼耶識に蓄えられることを「薫習〔くんじゅう〕」という。
5) 人柄やその人の香りは、薫習された種子から発せられている。
6) 「現行薫種子」とは、身・語(口)・意の種子が阿頼耶識に薫習されることである。(→すべての行為が深層の阿頼耶識に蓄えられるということ)
阿頼耶識
i. 阿頼耶識は、インドの「アーラヤ(住居、貯蔵所)」の音写である。
ii. 阿頼耶識には三つの性質がある。一、過去の行為の残痕を蓄える。二、蓄えられたものによって現在や未来が変わる。三、自我として実在化され、固定化されて執着の対象となる。
心王(八識三能変)表層と深層の絡み合い
i. 人間の<こころ>は、表層と深層が重層している。
ii. <こころ>は、表層から深層、深層から表層への2方向から捉える。
1) 表層→深層は、外の情報を受け入れていく受動的な一面。
2) 深層→表層は、深層が表層を支え動かしているという一面。
iii. 第一眼識~第五身識は、五感と呼ばれる感覚作用であり、一括して「前五識」と呼ばれる。
iv. 第六意識は、推理・判断・想像・洞察などの知的要素や、情緒、情操などの感情、意思意欲などすべての精神機能を含む広範囲な作用の<こころ>である。
v. 第七末那識は、潜在的な意識下の利己性、自己中心的な思い。
vi. 第八阿頼耶識は、過去を秘匿する潜在的な自己の深層。
vii. 一つのものを見たり聞いたりするときも、今日までの自分が総合的に働いている。
viii. 八識の<識>は<こころ>のこと。
ix. 使い分けは、識=了別(物事を区別している)、意=思量(いろいろに思いはかる)、心=積集(過去を集積し保持している)である。
x. 第一眼識~第六意識までを、<識>と呼ぶ。
xi. 第七末那識は、いつも利己的に思いはかるので、<意>と呼ぶ。
xii. 第八阿頼耶識は、過去を溜め込んでいるので<心>と呼ぶ。
唯識とは
i. 現実の自分を、立ち止まって凝視することから始まる。現実の自分とは、自分の根底(無)の部分を含む存在全体の働きを自覚することである。
ii. 欲望や性格を否定せず、人間すべてを受け入れて問う仏教である。
iii. 唯識は三蔵法師の説いたものである。三蔵法師は、弟子入りした慈恩大師の三事の欲を許した。
iv. 自己をどんどん新しいものに変化し、再創造させる<有>の仏教である。
g. 現実の人間存在は、不安と愛の両面を併せ持っている。自分の不安部分を見つめ受け入れてこそ、根底にある愛の部分にも気づくことができる。
h. 唯識学全体を明らかにするために、多くの議論が行われた。これは、唯識が締め付けや固定化した思考停止のない証拠である。
i. トラブルは自分の力で乗り越えなければいけない。その境遇に負けてしまうのは、自分の精神力の弱さである。
j. 赤ん坊が両足で歩くために何度も失敗を繰り返し乗り越えるように、人生とは、自分で立ち自分で歩くという気構えが根底になければならない。
k. 成唯識論とは、《こころ》である。こころを凝視し、空の自分に覚醒して、喜怒哀歓の自分を吟味する仏教。
l. 《こころ》の仕組みを理解すれば、自分を客観視ながらゆがみを軌道修正することができ、限りなく豊かな《こころ》にすることができる。
m. 《こころ》の仕組みを知ることで、新しい道を見出せる。
n. 悩み苦しむ理由がわかり、自分が何をどう苦しんでいるのかを発見すると、徐々にその苦悩から逃れることができる。
《こころ》は身近にあるものだが、そこに多少でも狂いがあったとき、真摯な毅然とした態度が必要である。
o. 《こころ》の中には、立ち上がるための力がある。自らの精神で克服していこうと努めれば、その力は強くなっていく。
p. 《こころ》も、身体同様に強く柔軟に鍛えなければならない。
q. 「すべての人の苦しみや悩みを救うことこそ、おのれの使命」 (相田みつを)
唯識論とは
a. 仏教の人間学であり、人間とは何か?を説いた心理学ともいえる。
b. 唯識学は、信じることよりまず理解することを教える。
c. 唯識は、現実の自分を、立ち止まって凝視することから始まる。現実の自分とは、自分の根底(無)の部分を含む存在の全体の働きを自覚することである。
d. スイスの精神医学者ユングは、「自分の体験するものはすべて心的現象にある。人間の心という永遠の事実の上に自分の基礎を築くために、自分という主観的存在(本当の無の自分)の、もっと独自にして内奥の基礎を知り、これを認識したい」という思いから、精神医学を始めた。
e. 仏陀のいう「自らを灯とし帰依処とせよ」とは、本来の自分を見つめ、それをよりどころとしなさい、ということ。
実践と理論
私の場合は理論よりも先に、幼い頃からの実経験での問題解決からの弁証法的内観による発見が先でした。
その時にはまだ知らない唯識論に説かれている四分が自分の中で動いていました。気づきませんが。
あらゆる事が全て問題解決と再創造に転換したのは、30才の頃の母の死が決定的だったでしょう。
その後、弁証された理解をもっての実生活による実践が、あまりにも今までと違ったとても軽いというか、スムーズで不安のない、喜びあふれる世界に変化したため、それを多くの人に伝えたくなり、客観的な弁証として精力的に多くの思想家や政治家、精神科医や心理学者、宗教家、学者などと会って、持ち前の率直さをもって討論しました。半ば仕事のようにです。
その実証を本などを読み、全てに通じる普遍性を探り、自分が発見した理解を検証していきました。本の内容はすんなり入ってくると言うよりも、「そのとおり」という感覚が主でした。すでに理解していることを言葉として表現することに役立ちました。
唯識論や般若心経、形而上学、哲学、心理学、大脳生理学、太極拳論その他もろもろと私の経験による発見と普遍性の通じるところでした。
今は、理論は全て人間の存在のという本体からの作用と考えています。
多くの人の人間の存在の中にある本質を見つけ出すことを、普遍的な楽しみとして、見つけ出した人と共有し実社会に役立てていくことを出来るはずだと思っています。