1) 布施〔ふせ〕…恵みを施し、互いに分かち合うこと。
(a) 菩薩の布施は「三輪清浄」である。布施の根元に利己生が超越されているため、施者・受者・施物に何のこだわりもない。
2) 持戒〔じかい〕…規律ある生活。自制心・自己抑制力。
3) 忍辱〔にんにく〕…耐えること。忍耐・我慢・辛抱。
4) 精進〔しょうじん〕…努力。
5) 禅定〔ぜんじょう〕…精神の統一。
6) 般若〔はんにゃ〕…根本智の修行。
7) 方便〔ほうべん〕…衆生済度の様々の方便をめぐらす。
8) 願〔がん〕…衆生済度の誓願。
9) 力〔りき〕…現実の是非・正邪を判断する力と、修行を継続する力を養う。
10) 智〔ち〕…後得智の修行。
v. <修習位>の修行は、真理によって高められ深められていく。
vi. 己を超えたものによって、己が清められていく。(無)
vii. 宗教的な言い方をすれば、如来に導かれての修行である。
viii. 煩悩浄化の図
1) <十波羅蜜>の修行により、煩悩が漸次力を失っていく。
2) 人間そのもの、生命そのものは煩悩でも善でもない。人間が生きていること自体に善悪はない。
3) <現行><種子><習気〔じっけ〕>は煩悩の状態の分類である。
(a) <現行>は、煩悩が実際に働いている状態。
(b) <種子>は、煩悩の潜勢態。
(c) <習気>は、種子の持つ雰囲気、残り香。
(d) <現行>を抑えることを<伏〔ぶく〕>、<種子>の無くなることを<断>、<習気>の消えることを<捨>という。
4) 修行の要は、自覚のできる<第六意識>である。
不定
i. <不定〔ふじょう〕>とは、「善悪どちらにも固定していない(善にも悪にも働く)」という意味。
ii. <悪作><睡眠><尋><伺>の四つに分類される。
iii. <悪作〔おさ〕>とは
1) よろずのことを悔しむ心、後悔すること。
2) <悪作=悔>が昇華すれば、懺悔につながる。
iv. <睡眠〔すいめん〕>とは
1) 眠くて意識の朦朧とした状態のこと。
v. <尋〔じん〕>、<伺〔し〕>とは
1) 両者とも、ものごとを推し量る推理力のこと。
2) 細かく分けると、浅い→<尋>、深い→<伺>。
3) 唯識では対象を知るのに、直感的な認識(現量)と、推理による認識(比量)の二つの方法がある。<尋><伺>は、後者である。
随煩悩
i. 根本煩悩に付随して起きる煩悩のこと。細やかにも激しくも動く。
ii. <小随煩悩><中随煩悩><大随煩悩>の三郡に分類される。
iii. <小随煩悩>
1) 各別に強い性格を持っており、不善そのものとして働く心作用のこと。他の煩悩との共通点は小さい。
2) <小随煩悩>は、十ある。
3) <忿〔ふん〕>とは
(a) 怒りの爆発のこと。
(b) 根本煩悩は<瞋>である。
4) <恨〔こん〕>とは
(a) 恨みのこと。(心でくすぶり続けているだけ。陰湿)抑圧によって起こる。
(b) 根本煩悩は<瞋>である。
5) <覆〔ふく〕>とは
(a) 自分の悪を覆い隠すこと。
(b) 根本煩悩は<貪・むさぼり><癡・おろかさ>である。
6) <悩〔のう〕>とは
(a) 悩むこと。どうにもならないことを考えること。
(b) 根本煩悩は<瞋>である。
7) <嫉〔しつ〕>とは
(a) 嫉妬すること。
(b) 根本煩悩は<瞋>である。
8) <慳〔けん〕>とは
(a) 物惜しみすること。けち根性。
(b) 根本煩悩は<貪・むさぼり>である。
9) <おう>とは
(a) 相手の心を乱し、たぶらかすこと。
(b) ありのままの自分を妨げ、実物以上の自分を見せびらかそうとすること。
(c) 根本煩悩は<貪><癡>である。
10) <諂〔てん〕>とは
(a) 相手を自分のほうに向けさせようとして、心にも無いことを言ったりしたりすること。
(b) 根本煩悩は<貪><癡>である。
11) <害〔がい〕>とは
(a) 人の哀しみが分からないこと。→人の心が分からない。
(b) 根本煩悩は<瞋>である。
12) <憍〔きょう〕>とは
(a) 自分をおごり高ぶること。
(b) <憍>と<慢>はよく似ているが、<慢>は他人と自分を比較して高慢になることで、<憍>は他との比較の意識は少なく、自分を自慢し思い上がること。
(c) 根本煩悩は<貪・むさぼり>である。
iv. <中随煩悩>
1) <小随>の心所である、不善の<こころ>の働きの根底に、常時見られる心作用のこと。
2) <中随煩悩>は、<無慚><無愧>の二つがある。
3) <無慚〔むざん〕>とは
(a) 真理に対しても良心に対しての羞恥心がないこと。
(b) ⇔<慚>内面的な羞恥心
4) <無愧〔むき〕>とは
(a) 世間体も人のことも気にしない心作用のこと。
(b) 底に自我中心・利己性があり、己の汚れを自覚しない。
(c) ⇔<愧>世間をはばかり、人目を恥じる
5) 恥とは、自分を省みること。
6) <無慚><無愧>は、自分を振り返り、省みることを忘れた心所である。
v. <大随煩悩>
1) 「染心(不善、悪心、有覆無記)」に働く心作用のこと。
2) 八つに分類される。
3) <掉挙〔じょうこ〕>とは
(a) こころのたかぶりのこと。「頭にきた」
(b) 内面的に平静な状態を失う。
4) <惛沈〔こんぢん〕>とは
(a) こころが沈んでしまうこと。
(b) 内面的に平静な状態を失う。
5) <不信〔ふしん〕>とは
(a) 不信感を抱くこと。相互の関係は完全に遮断される。
6) <懈怠〔けだい〕>とは
(a) 善い事、為すことを怠けていること。(積極的)
7) <放逸〔ほういつ〕>とは
(a) 善悪の判断も行動もだらしないこと。(消極的)
8) <失念〔しつねん〕>とは
(a) 念ずることを失っている。仏陀の教えや真理への志向を忘れること。(命を大事にしていない)
(b) ⇔<正念〔しょうねん〕>
9) <散乱〔さんらん〕>とは
(a) 心が定まらないこと。
(b) 対象への移り気があり、落ち着きの無い状態。
(c) 内面的に平静な状態を失う
10) <不正知〔ふしょうち〕>とは
(a) 誰にでも分かるはずの道理が分からないこと。
(b) <無常><無我>あるいは<空>の自己が会得できないこと。
(c) <不正知>の自覚は、<正知>を得ることのみ。
11) 正知・正見を得れば、煩悩はすべて崩れる。(特に分別起の煩悩)
12) 正知・正見が得られないから、我見・辺見・邪見などが我が物顔に活動する。
vi. 「煩い悩む」ことは、悪ではない。
vii. 自分の煩悩を自覚し、己への省察を深めていくことが大事である。
viii. 「人の心、もとより善悪なし。善悪は縁に随っておこる」道元禅師
『正法眼蔵随聞記』より
別境
i. <遍行>と同性質と考えられていたが、徐々に区別され、<別所>の五心所(欲、勝懈、念、定、慧)に分類された。
ii. 前五識、第六意識と共働するが、<慧>のみは、第七末那識とも共働する。
iii. 五心所それぞれ対象が異なり、そのときに応じて単独で、二あるいは五全部が働く。
1) <欲>→<所楽の境>=ねがわしい対象
2) <勝解>→<決定の境>=確定的な対象
3) <念>→<曾習の境>=以前に経験したこと
4) <定><慧>→<所観の境>=深い智慧で捉えた対象
iv. <欲〔よく〕>とは
1) 自分が知りたいと思う何かを知ろうとするときの一番基底の働き。
2) 「精進」の原動力になる。
3) <別境>の欲は、第六意識でコントロール可能。
4) 貪欲⇔善法欲
5) <無欲>とは、欲に拘束されないこと。精進努力して到達すべきところ。
6) 放棄するのではなく、「捨てて捨てない、捨てないで捨てる」というのがよい。
v. <勝解〔しょうげ〕>とは
1) 対象を明確に判断すること。
2) 認識に確実性が増すが、認識が固定化されぬよう気をつける。
vi. <念〔ねん〕>とは
1) 過去の経験や記憶を忘れない心作用のこと。
2) 善悪いずれにも働き、善→<正念>、煩悩→<失念>と呼ぶ。
3) 深層にまで届く記憶をいう。
4) 「明記不忘」とは、はっきり記憶して忘れぬこと。
5) 「短い時間」という意味もある。=刹那
(a) 「阿弥陀如来を一心不乱に信じる刹那の心が、往生浄土の原因となる」=
<一念業成〔いちねんごうじょう〕>
(b) 「ひとつの思いの中に宇宙のすべてが含まれる」=<一念三千>
vii. <定〔じょう〕>とは
1) <こころ>の集中のこと。
2) 日常生活で見られる<生得定>と、生まれながらに持っている性質を磨き上げ練り上げていく<修得定>がある。
3) 別の呼び名として、<禅定><静慮><三昧><止><心一境性>がある。
viii. <慧〔え〕>とは
1) 是非善悪をえらび分けること。=簡択断疑〔けんじゃくだんぎ〕
2) えらび分ける段階を<慧>、はっきり決断する段階を<智>という。
3) <聞・思・修の三慧>
(a) <聞慧〔もんえ〕>とは、仏陀の教えを聞くことによって会得する簡択の力のこと。
(b) <思慧〔しえ〕>とは、思索することにより得られた簡択の力のこと。
(c) <修慧〔しゅえ〕>とは、実践によって自得した簡択力のこと。
4) 簡択の眼力が、その人の生涯を決めていく。
5) 慧眼を磨き、慧力を養うことが、<定>を練ることと一体になり、修行の肝心要となる。
ix. <別境>のまとめ
1) <別境>の五心所は、すべて善悪どちらにも働く。
2) <別境>は、善の方向へと向かって説かれている。→<欲>を「勤の依」、<定>を「智の依」としている。
3) <勤〔ごん〕>=<精進>
4) 悟りを開くと、五心所が、末那識・阿頼耶識とも共働する。
5) 悟りを開くと、末那識・阿頼耶識どちらも<善>の性質になる。
阿頼耶識は善か悪か
1) 人間の本性について、孟子は性善説を、筍子は性悪説を説いた。
2) 仏教での善悪は、我執・利己性・自己中心的などを中心にそれに添ったものを悪、それを超えたものを善と捉える。
3) 菩薩の心を清浄といい、凡夫の心を染汚〔ぜんま〕という。
4) 唯識では、善悪2分論ではなく「三性分別」としている。
5) <三性>とは、善(陽)、悪(陰)、無記(無)のことである。
6) <無記>とは、善でも悪でもない性質である。
7) <無記>はさらに<有覆〔うふく〕無記>と<無覆無記>に分類される。
8) 有覆〔うふく〕無記は、汚れのにおいのする無記(グレー)。
9) 無覆無記は、混じりけの無い純真無垢な無記。
10) 阿頼耶識は無覆無記である。
11) 一人ひとり異なった人格自体に、善悪は当てはまらない。
12) 過去と現在との関係…①異熟因→異熟果②同類因→等流果
13) ①異熟因→異熟果の関係
(a) 過去の因と現在の果とは、異なった性質である。
(b) 過去の業が善・悪であっても、現在の姿は無記である。(善因→無覆無記、悪因→無覆無記)
(c) 阿頼耶識において、この関係が成り立っている。
14) ②同類因→等流果の関係
(a) 過去の因と現在の果は、同じ性質である。
(b) (善因→善果、悪因→悪果)
(c) 種子において、この関係が成り立っている。
15) 生きていること自体は無覆無記であるが、その上に留められている種子は、善の種子は善の性質、悪の種子は悪の性質そのまま変わらない。
16) 過去に悪行を積み重ねてきた人間も、善行を積んできた人間も、現在は同じ無記である。
17) 阿頼耶識は、過去の業の総合の果体である。
18) 阿頼耶識は、過去と未来を収蔵した存在である。
19) 今現在という一点に、無限の過去と未来が圧縮されている。
20) 今この瞬間をどう生きるかが、自分の全存在であり全生涯となる。
人間は善悪を知る木の実を取って食べることで堕落した。
聖書からの抜粋です。
全くそのとおりです。この聖書の文言を否定するキリスト教系の新興宗教もあるようですが、この宗教も陥っているように、人間がこの善悪をはかるところから堕落したというのであれば間違い有りません。
しかし、堕落とはなんでしょうか?
何から堕落したのでしょうか?そうです。善悪などを知ることも、又はかることもない、無為自然な世界から堕落したのです。
善悪が生まれたときに、この世に神とサタンが生まれたと言っても過言ではありません。
神が生まれたと同時にサタンが生まれたのでしょう。
もともと、真理の世界には、そんなものはいません。聖書も実はそう言っているのです。