最近、知人に勧められ読んでみたのですが、とっても面白く、はまっている本があります。医学博士であり児童学を研究している平井信義氏著書の子育て本です。その中に、「愛することは感じること」と書いてありました。つまり、子どもの心になってみること・共感して理解してみること(受容)が愛ということです。本を読めば読むほど、こどもの発達段階が理解でき、純粋な子供の成長が、しつけと言う名の親たちの都合で抑圧されてしまうケースが少なくないのだとわかります。幼稚園の創設者、フレーベルが「こどもの遊びは生活の一部で、学習である」と言っているように、幼児期のいたずらは研究心や自発性の発達を促し、生命力あふれる人間に成長する大切なプロセスなのです。子育ては特に六歳まではとにかく受容して愛情を注いで自発性を育てることが大事だと言います。平井氏は、子どものけがのすすめもしていますし、いたずらのすすめも大いにしています。本文の中にある面白いエピソードの1つです。平井氏が幼い孫をうちに預かったある日、帰宅した平井氏の目に飛び込んできたものは、部屋のドアというドア、ふすまというふすまに赤いマジックで×が書いてあったそうです。何事かと思ったら、昼間にお母さんからアリババと40人の盗賊の絵本を読んでもらったということでした。絵本のストーリーに載っているのと同じように盗賊が部屋に入らないように印をつけたのです。それを知った平井氏は、怒らずにこにこし、孫に対しては、困った感情を素直に訴えたそうです。普段から良好な情緒的結びつきがじいちゃんと孫のあいだにあるので、じいちゃんの困った顔を見た孫は二度と同じいたずらをしなかったそうです。その後平井氏は、来客が来るたびに×を見せ、孫の作品ですと自慢したそうです。本当に、平井氏の本はたくさん出版されていますが、子育て本と言っても全ての人との関わり方に共通するものだと思うので、とってもためになるおすすめ本です。
受容と迎合の違いを教えてください。
受容することは愛だといわれていましたが、愛は受ける心ですね。
迎合とは相手の気に入るように努めること、相手に合わせて自分の意見や態度を変えることだと理解しています。
権力に迎合するとかいうことでとてもよくわかりますが、確かに受容するとは、権力を受容するとは言わないですよね。
受容とはどのような事なんでしょうか?愛と漠然といわれてもよくわかりませんでした。
よろしくお願いいたします。
『楽しく生きるための12箇条』はこれでいいのですか?
①何事にも感謝する(すべてのことは自分のために起こっていると信じ、慈愛を持つ。)
②何事にも反省する(すべてのことは自分の責任で起こっていると信じ、懺悔する。)
③自分自身を大切にする(自分自身の存在する過程を知り、自分自身のありがたさを知る。)
④何事にも全力で最善を尽くす(瞬間だけが生きていることを知る。一期一会・行雲流水)
⑤すべてのことの良いところを探す(すべてのものに心があり、無駄なものがないことを知る。)
⑥ありのままに話し、接する(すべての人は裸で平等であることを知る、同じ心を持っている。)
⑦非難と失敗をおそれない(非難は風、失敗は雨で自分自身を強く大きく育てる糧と思う。)
⑧愚痴をこぼさない(今、命があることのすばらしさと、生かされていることを知る。)
⑨精神と肉体を鍛える(精神と肉体は心の付属物であり、決して切り離せないことを知る。)
⑩期待しない(期待は良い結果を待つこと、希望は実現を願い望むこと)
⑪本質を知る(すべてのものの心は、自分の心でしか見えないということを知る。)
⑫気楽に生きる(元々はこの世のものでない自分を知り、何にもとらわれない。)
この前、初期の方便だということをお聞きしました。この先はどうなるのでしょうか?
五位の修行 第四位 修習位〔しゅじゅうい〕
i. <修習位>とは、矛盾した自分に立ち向かう修行の段階である。
ii. <通達位>で親証した<空>の自覚を、繰り返し深めていく。
iii. <修習位>は、菩薩の<十地〔じゅうじ〕>の段階でもある。
1) 極喜地〔ごっきぢ〕…真如と一体の体験を初めてした時の無上の喜びの境位。
2) 離垢地〔りくぢ〕…汚れが離れる段階。
3) 発光地〔ほっこうぢ〕…智慧の光が輝き始める段階。
4) 焔慧地〔えんねぢ〕…智慧が焔となる段階。聖なるものに対してさえも、愛著を否定する。
5) 極難勝地〔ごくなんしょうぢ〕…<真如>を証する根本智と、世俗の智とが、真に綜合統一される段階。
6) 現前地〔げんぜんぢ〕…無分別の最勝の智慧が現前する。
7) 遠行地〔おんぎょうぢ〕…<現前地>で現前した最勝の無分別智が、更に極め尽くされる段階。
8) 不動地〔ふどうぢ〕…真如と一体となった生活が、何の努力もせず自然に続き、二度と変わることはない境地。
9) 善慧地〔ぜんねぢ〕…仏の教えの言葉や意義を自在に理解体得し、自由自在にそれを人に説くことが出来る段階。
10) 法雲地〔ほううんぢ〕…衆生の煩悩を滅除し、衆生の善根を生育させる。智慧の完成。
善
i. <善>とは、私たちがどのように生きればよいのかを、心作用の面から答えようとする心所のこと。
ii. <善>の心所は、十一に分析される(信、慚、愧、無貪、無瞋、無癡、勤、軽安、不放逸、行捨、不害)。
iii. 唯識での<善>は、「私という個の存在をたすけ、私を幸せにしてくれるもの」ということ。
iv. <信〔しん〕>とは
1) 澄み切った清き<こころ>のこと。
2) 認識という知的要素を含むもの。
3) <信>=<知(認識)>は、インドの代表的な<信>の定義。
4) 知・情・意の全体を包み込んだ、全人格的な清浄である。
5) 真の<信>とは、「仏(如来)と我と一体」「信じる主体と信じられる対象とが一体」にある。
6) 自分が何か別のものを信じることではなく、自分自身の存在を信じ、引き受け、頂戴する。→仏凡一体の境地
7) 真の<信>に開眼し、その真理を深く明晰に認識することに、深い<信>がある。
8) 人間の認識は全能ではないが、認識を離れて<信>はない。つまり、「人間認識の限界」と「それを超えたもの」とが交錯し出会う一点が<信>である。
v. <慚〔ざん〕>とは
1) 内面的(自分の良心、真理、正義)な恥の自覚。
2) 『大乗荘厳経論』には「慚ある者は不退なり。退は羞恥すべきが故なり。」とある。それは、自分に恥じることを知る者は後退することはないということ。後退に勝る恥はないし、後退は自己によってのみ自覚されるものだからである。
3) <こころ>の底に言い訳をする自己防衛の自我があると、そこに<慚>はない。<慚>は自己防衛本能が砕かれたところにある。
vi. <愧〔き〕>とは
1) 外界(人と人)との関係に依存した恥の自覚。(世間体など)
2) ベネディクトは『菊と刀』で、日本人の倫理の基盤は人目を気にすることで、それは内面性を伴わない程度の低い倫理だと批判している。
vii. <慚〔ざん〕>と<愧〔き〕>
1) <慚>があれば必ず<愧>もある。しかしその逆はそうとは限らない。故に、<慚>がもっとも大切である。
2) <慚><愧>は、深まって<懺悔>になる。本当にはじるには、<我>の粉砕が必要である。
viii. <無貪〔むとん〕><無瞋〔むしん〕><無癡〔むち〕>の<三善根>とは
1) <三善根〔さんぜんこん〕>は三大煩悩の反対で、<我>に基づかない。
2) <無貪>とは、本当の自分以外のものは自分のものではないと自覚し、「むさぼりのない」こと。
3) <無瞋>とは、気に入らないことがあっても腹を立てず、気まま(自我)な怒りをもたないこと。
4) <無癡>とは、ものの道理に明るい理解を持つこと。愚かでないこと。
ix. <勤〔ごん〕>とは
1) 善の真理の向かって進む<こころ>のすがたのこと。(心の精進)
x. <軽安〔きょうあん〕>とは
1) 修行に打ち込んでいるときの、軽やかな<こころ>の状態のこと。
xi. <不放逸〔ふほういつ〕>とは
1) 自分の好みや考えにとらわれず、自分を戒めながら善(本当の自分)に向かって進んでいくこと。=<精進><三善根>
xii. <行捨〔ぎょうしゃ〕>とは
1) 好き嫌いを離れた平静な境地のこと。(すべて捨てる)
2) 真の<善>は、無功用にあり自然にある。=無条件の愛
xiii. <不害〔ふがい〕>とは
1) 相手を傷つけず、相手への思いを忘れないこと(対立しないで融和すること)。=無条件の愛
2) 慈悲とは、無瞋と不害のこと。(慈=無瞋、悲=不害)
xiv. <善>のまとめ
1) <善>には、<有漏善>と<無漏善>がある。
2) <有漏><無漏>の違いは、利己性があるかどうか。
3) 凡夫の善は、わが身のためにする<有漏善>に過ぎない。
4) 仏・菩薩は、<我>を超えて<平等性智>の末那識に転じるため、<無漏善>になる。
心所有法(六位五十一の心所)
a. 唯識は<こころ>を<心王>と<心所有法しんじょうほう>の二つに分ける。
b. <心王>は「心の主体」の面、<心所有法>は「こころの働き」「心理作用」の面である。
c. <心所有法>とは
i. <こころ>の探求といえる。
ii. 人間の<こころ>の実態を細かに分析する心理分析でもある。
iii. 「心に所有されるもの」「心に属するもの」という意味。
iv. <心王>と和合して離れないもの=<相応法>
d. <十二縁起>とは
i. 瞑想によって観ぜられた真理のこと。
ii. 生老死の苦悩の根源を掘り下げていき、十二の段階(老死・生・有・取・愛・受・触・六処・名色・識・行・無明)を経て、最後に<無明>に到達された教説である。
iii. 仏陀の教説は、<無明(=心所)>の把握から始まった。
e. 多種多様な<心所>の説
i. 仏陀の滅後、<心所>の分類分析も精細になった。
ii. 唯識は、<六位四十六の心所>をベースに、<六位五十一の心所>を論じた。
f. <六位五十一の心所>とは
i. <遍行〔へんぎょう〕>=触・作意・受・想・思
1) <こころ>と一緒に、いつでもどの識とも働く心作用で、五つある。
ii. <別境〔べつきょう〕>=欲・勝解・念・定・慧
1) 別々に働く。
2) 前五識・第六意識とのみ共働する。
3) ただし、えらび分ける<慧>だけは、末那識と共働する。
iii. <善>=信・慚・愧・無貪・無 ・無癡・精進・軽安・不放逸・行捨・不害
1) 普段から心がけるべき方向。
2) <無明>に対応する善き慧(自己と自我を分けて考える)の働きを独立させた<無癡>が加えられている。
iv. <煩悩>=貪・ ・癡・慢・疑・悪見
1) かき乱し、悩ませる働き。
v. <随煩悩>= ・恨・覆・悩・嫉・ ・ ・ ・害・憍・無慚・無愧・ ・惛沈・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知
1) <煩悩>が根元となってさらにはっきりした形で現われたもの。
2) 基本的に<煩悩>と同じ動き。
vi. <不定>=悔・眠・尋・伺
1) 善にも悪にも働く<心所>。
g. 自身を知れ
i. 唯識は、「自心を知る」ことである。
ii. ただ知っているだけでなく、自分自身の内にある<煩悩>そのものを取り除く志気が無ければいけない。
第六意識
i. ソクラテスは、自分がすべての悪徳を背負っているのを知っていた。
ii. 悪徳を転換させるこころ
1) 第六意識によってのみ、自分を変えることができる。
2) 第六意識は、大きく分けて<五倶〔ごく〕の意識>と<不倶〔ふく〕の意識>がある。
3) <五倶〔ごく〕の意識>とは、五識の感覚とともに働く第六意識のことである。
4) <五倶の意識>の二分類
(a) <五同縁〔ごどうえん〕の意識>…感覚を判断したり思考したりする「知覚」の働きである。(受)
(b) <不同縁〔ふどうえん〕の意識>…感覚から連想する働きである。(想念)
5) <不倶〔ふく〕の意識>とは、五識(感覚)とは関係なく動く意識のことである。
6) <不倶の意識>の二分類
(a) <五後の意識>…<不同縁の意識>がさらに広がった連想の一種のこと。
(b) <独頭〔どくず〕の意識>…完全に五識とは関係なく働く意識のこと。外界とのかかわり無く、独自に働く。三分類される。
(i) ①<独散の意識>…意識が独自の領域に動き、心ここにあらずの状態のこと。不安から働くと妄想に、愛から働くと想像力になる。
(ii) ②<夢中の意識>…夢のような状態のこと。
(iii) ③<定中の意識>…想像力や夢中の状態を超え、夢か現実かわからなくなってしまう無の状態のこと。不安から働くと幻覚も。
我欲から慈愛への転換
1) 末那識は仏陀にもある。それを<已転依〔いてんね〕の末那><出世の末那><無染汚〔むぜんま〕の末那>と呼ぶ。
2) <已転依>とは、悟った後ということである。
3) 仏陀も凡夫も、人間としての基本的な構造は同じであるが、悟った後の末那識は、真如と他のすべてのものが対象となる。
4) <真如>とは、「ありのままの姿」「永遠不変の真理」である。
5) 末那識が「真如を対象とする」ということは、
(a) 空なる本当の自己が見えてくること。
(b) それまでの自画像が虚像であり、幻想・妄想に過ぎなかったという気づき。
(c) 無我・空への覚醒と、虚像の自我の崩壊によって、自分のみに向けられていた<こころ>が広く拡大し、他の存在をも受容するようになること。
6) 末那識の内容が、反価値的な利己性のエネルギーから、愛に転換することを、<平等性智〔びょうどうしょうち〕>という。
v. 我執を投げ捨てよ
1) 末那識の内容の転換は、<我>の思量を<無我>へ変えることであり、虚像の自我への依存から、真実の自己への帰還ともいえる。
四煩悩と慧
1) 末那識とともに働く<心所>(心の作用)は、十八種類あり、特に大切なのが<四煩悩>と<慧>である。
2) 四煩悩とは
(a) 我癡〔がち〕
(i) 自分の本当の姿を知らないこと。(無明)
(ii) 知識が無いのではなく、当然わかるべきものの道理がわからない。
(iii) 暴流のような本当の自分が、作り上げられたゆがんだ姿態によって覆い隠されていることを知らず、ゆがんだ姿態を実体化して自分であると錯覚していること。
(iv) 自分の実相がわからないという消極的な一面。
(b) 我見〔がけん〕
(i) 自分の知っている範囲の姿が、自分のすべてだと思ってしまうこと。
(ii) 自我へのこだわり。自我があるから他人という観念にとらわれる。
(iii) 自我の幻想にこだわり、それを押し出してくる積極的な一面。
(c) 我慢〔がまん〕
(i) 自慢・高慢の気持ち。他人と自分を比較し、相手を侮る慢心である。
(ii) <慢>の心理を分析したものに<七慢>というのがある。
(iii) 七慢とは、①慢、②過慢、③慢過慢、④我慢、⑤増上慢、⑥卑慢、⑦邪慢である。
(iv) ①<慢>とは、無意識下にある「我」という観念により、相手に対抗してしまうことである。
(v) ②<過慢>とは、自分と対等または優れたものに対し、潜在的に自分のほうが良い、自分も同等にできると思うことである。
(vi) ③<慢過慢>とは、自分より優れたものに対して、自分のほうが良い、と段々高慢が高じてくることである。
(vii) ④<我慢>とは、自分にこだわり、自分のほうが相手より優れていると思い上がる気持ちのことである。(天狗)
(viii) ⑤<増上慢>とは、自分ではわかっていない境地を、証得したかのようにふるまうことである。
(ix) ⑥<卑慢>とは、自分よりはるかに優れた人に対し、「たいしたことは無い」と思う慢心である。
(x) ⑦<邪慢>とは、自分にまったく徳が無いのに徳があると思い込むことである。
(d) 我愛〔があい〕
(i) 自分のみを愛し続けること。他と調和しない。オンリーワンのうぬぼれ。
3) 自分の本当の姿を知らないから(我癡)、自分について誤った気持ちを持ち(我見)、高慢になったり(我慢)、うぬぼれ(我愛)を持ったりする。
4) 自慢話の底には、我癡・我見・我愛がひそんでおり、四煩悩は一体不離のようなもの。
5) <慧>とは
(a) 物事を選びわけ、はっきりと区別して決めること。
(b) 四煩悩に共通しているものは、自分と他とは別の存在であると分け、これこそが自分だと実体化し固定化する<慧>の働きである。
末那識 我執のこころ
1) 末那の語源は、インド語の「マナス」の音写で「思い量る」という意味である。
2) 末那識は、自分のことだけにこだわり思い量り、他を認めたがらない我執のこころ(=自我)である。
3) 末那識は、第六意識がなくなった無意識の状態(睡眠中、気を失っている)でも働いている。
4) 末那識は、個の人間として存在するための理由である。生きる力になる。
5) 第六識は善・悪・無記のいずれにも変化するが、末那識は常に<有覆無記>である。
6) 意識的に良いことをしていても、末那識の我執は常に働いている(常恒)。
末那識の要点
1) 我執は、私たちの視野や思考を偏ったものにする。
2) 我執は、潜在的に<こころ>のそこに働き続けている。
3) 我執は、真理や他の存在への暖かい自愛へと、視野広く転換することができる。