人間と仏性の関係

1) <仏性>とは、仏の性質、ありは仏への可能性である。
2) 仏性とは、無条件の愛である。
3) <仏性>の中身は、「永遠性」と「清浄性」の2面で捉えている。
4) 大乗仏教は、みんな仏への可能性を平等に持っている、と捉えている。
5) 仏性の無い人間を、無性有情〔むしょううじょう〕という。
6) 唯識では、<仏性>を①理仏性と②行仏性に分ける。
7) 理仏性とは
(a) 永遠、清浄の真理
(b) 人間の作為を離れた永遠不変の真理。<真如>、<無為法>ともいう。
8) 理仏性と私たちの関係①
(a) 現実の私たちの存在は無常であり、<有為法~ういほう~>という。
(b) 真理(無為法)を<性>、現実(有為法)を<相>と呼び、全く次元が異なるものである。
9) 理仏性と私たちの関係②
(a) 諸行無常、諸法無我の真理同様に、真理そのものである理仏性と私たちは、一体不二である。
(b) 理仏性は、もともと人間に備わっている。
10) 永遠の真理と人間の関係を、2面で捉えることを<非一非異>という。
(a) <非一>は、現実の存在≠真理ということ。
(b) <非異>は、真理は現実の中にあるということ。しかし、一体ではない。
11) 行仏性とは
(a) 人の<こころ>にある清らかな一面のこと。(仏になりたいと求める心)
(b) 人の意志、意識の違いに着眼しており、有為法である。
(c) 行仏性は、<無漏種子~むろしゅうじ~>と呼ばれることがおおい。
(i) 無漏とは、煩悩がないこと。
(ii) 無漏種子とは、阿頼耶識に蓄えられた清らかな力のこと。
(d) 阿頼耶識の中の無漏種子が引き出された人は、行仏性を持っている。
(e) 煩悩などに隠れて無漏種子が出ていない人は、<無性有情>(俗物)であり行仏性を持たない無仏性となる。
12) 真理・真如を<無為無漏>(死んでいる自分、死んで生きる)、仏道を志す清らかな生き方を<有為無漏>、煩悩のとりこになっている凡夫を<有為有漏>という。
13) 唯識がなぜ仏性の無い人間がいるというのか?
(a) 理仏性は誰しも持っているが、行仏性はその人の意識によって隠れてしまっているので、片方が欠けていることになるから。
14) 阿頼耶識の底に第九識がある。(すべてがつながっている純粋意識の部分)
15) 阿頼耶識をクリーンにすると、第九識が上がってくる。
16) 阿頼耶識にためた影の部分は、第九識が光にしてくれる。
17) 唯識とは、第八識をクリーンにする(問題解決する)方法である。
18) 地獄も極楽も願わず、ただ現在の自分を愛し続ける己があるのみ。

唯識とは

i. 現実の自分を、立ち止まって凝視することから始まる。現実の自分とは、自分の根底(無)の部分を含む存在全体の働きを自覚することである。
ii. 欲望や性格を否定せず、人間すべてを受け入れて問う仏教である。
iii. 唯識は三蔵法師の説いたものである。三蔵法師は、弟子入りした慈恩大師の三事の欲を許した。
iv. 自己をどんどん新しいものに変化し、再創造させる<有>の仏教である。
g. 現実の人間存在は、不安と愛の両面を併せ持っている。自分の不安部分を見つめ受け入れてこそ、根底にある愛の部分にも気づくことができる。
h. 唯識学全体を明らかにするために、多くの議論が行われた。これは、唯識が締め付けや固定化した思考停止のない証拠である。
i. トラブルは自分の力で乗り越えなければいけない。その境遇に負けてしまうのは、自分の精神力の弱さである。
j. 赤ん坊が両足で歩くために何度も失敗を繰り返し乗り越えるように、人生とは、自分で立ち自分で歩くという気構えが根底になければならない。
k. 成唯識論とは、《こころ》である。こころを凝視し、空の自分に覚醒して、喜怒哀歓の自分を吟味する仏教。
l. 《こころ》の仕組みを理解すれば、自分を客観視ながらゆがみを軌道修正することができ、限りなく豊かな《こころ》にすることができる。
m. 《こころ》の仕組みを知ることで、新しい道を見出せる。
n. 悩み苦しむ理由がわかり、自分が何をどう苦しんでいるのかを発見すると、徐々にその苦悩から逃れることができる。
《こころ》は身近にあるものだが、そこに多少でも狂いがあったとき、真摯な毅然とした態度が必要である。
o. 《こころ》の中には、立ち上がるための力がある。自らの精神で克服していこうと努めれば、その力は強くなっていく。
p. 《こころ》も、身体同様に強く柔軟に鍛えなければならない。
q. 「すべての人の苦しみや悩みを救うことこそ、おのれの使命」 (相田みつを)