1) 識の所依とは、何かを基盤とし、何かを依り所としている私たちのこころを捉えたものである。
2) <識の所依>は、①種子依、②倶有依〔くうえ〕、③開導依〔かいどうえ〕がある。
3) ①種子依とは
(a) <こころ>の働き(見方、考え方)は、種子に基づくものである。
(b) 種子は、<本有種子〔ほんぬ〕>と<新薫種子〔しんくん〕>に分けられる。
(c) <本有種子>は、先天的に身に具備するもの。
(d) <新薫種子>は、経験によって新しく蓄積するもの。
4) ③開導依とは
(a) 開避引導の略で、道を開いて後のものを引き出すこと。
(b) 今の<こころ>は、前の瞬間の<こころ>を依り所として働いているということ。
(c) 時間的な前後の関係であり、<こころ>の連続的な一面といえる。
5) 倶有依とは
(a) 倶有とは、「倶〔とも〕に有る」ということから、<倶有依>とは「同時にある依り所」ということである。
(b) 識相互の関係である。
(c) それぞれの識の倶有依は
(i) 前五識=①五根、②第六意識、③第七末那識、④第八阿頼耶識
(ii) 第六意識=①第七末那識、②第八阿頼耶識
(iii) 第七末那識=第八阿頼耶識
(iv) 第八阿頼耶識=第七末那識
(d) 人が生きていることの背後には、末那識が<倶有依>としてぴったり寄り添っている。
四煩悩と慧
1) 末那識とともに働く<心所>(心の作用)は、十八種類あり、特に大切なのが<四煩悩>と<慧>である。
2) 四煩悩とは
(a) 我癡〔がち〕
(i) 自分の本当の姿を知らないこと。(無明)
(ii) 知識が無いのではなく、当然わかるべきものの道理がわからない。
(iii) 暴流のような本当の自分が、作り上げられたゆがんだ姿態によって覆い隠されていることを知らず、ゆがんだ姿態を実体化して自分であると錯覚していること。
(iv) 自分の実相がわからないという消極的な一面。
(b) 我見〔がけん〕
(i) 自分の知っている範囲の姿が、自分のすべてだと思ってしまうこと。
(ii) 自我へのこだわり。自我があるから他人という観念にとらわれる。
(iii) 自我の幻想にこだわり、それを押し出してくる積極的な一面。
(c) 我慢〔がまん〕
(i) 自慢・高慢の気持ち。他人と自分を比較し、相手を侮る慢心である。
(ii) <慢>の心理を分析したものに<七慢>というのがある。
(iii) 七慢とは、①慢、②過慢、③慢過慢、④我慢、⑤増上慢、⑥卑慢、⑦邪慢である。
(iv) ①<慢>とは、無意識下にある「我」という観念により、相手に対抗してしまうことである。
(v) ②<過慢>とは、自分と対等または優れたものに対し、潜在的に自分のほうが良い、自分も同等にできると思うことである。
(vi) ③<慢過慢>とは、自分より優れたものに対して、自分のほうが良い、と段々高慢が高じてくることである。
(vii) ④<我慢>とは、自分にこだわり、自分のほうが相手より優れていると思い上がる気持ちのことである。(天狗)
(viii) ⑤<増上慢>とは、自分ではわかっていない境地を、証得したかのようにふるまうことである。
(ix) ⑥<卑慢>とは、自分よりはるかに優れた人に対し、「たいしたことは無い」と思う慢心である。
(x) ⑦<邪慢>とは、自分にまったく徳が無いのに徳があると思い込むことである。
(d) 我愛〔があい〕
(i) 自分のみを愛し続けること。他と調和しない。オンリーワンのうぬぼれ。
3) 自分の本当の姿を知らないから(我癡)、自分について誤った気持ちを持ち(我見)、高慢になったり(我慢)、うぬぼれ(我愛)を持ったりする。
4) 自慢話の底には、我癡・我見・我愛がひそんでおり、四煩悩は一体不離のようなもの。
5) <慧>とは
(a) 物事を選びわけ、はっきりと区別して決めること。
(b) 四煩悩に共通しているものは、自分と他とは別の存在であると分け、これこそが自分だと実体化し固定化する<慧>の働きである。
末那識 我執のこころ
1) 末那の語源は、インド語の「マナス」の音写で「思い量る」という意味である。
2) 末那識は、自分のことだけにこだわり思い量り、他を認めたがらない我執のこころ(=自我)である。
3) 末那識は、第六意識がなくなった無意識の状態(睡眠中、気を失っている)でも働いている。
4) 末那識は、個の人間として存在するための理由である。生きる力になる。
5) 第六識は善・悪・無記のいずれにも変化するが、末那識は常に<有覆無記>である。
6) 意識的に良いことをしていても、末那識の我執は常に働いている(常恒)。
末那識の要点
1) 我執は、私たちの視野や思考を偏ったものにする。
2) 我執は、潜在的に<こころ>のそこに働き続けている。
3) 我執は、真理や他の存在への暖かい自愛へと、視野広く転換することができる。
自分の器量を生きよ
1) 人は別々の経験を蓄積した阿頼耶識によって、個としての独自の人生を生きている。
2) 他人を羨まず、さげすまず、自分の器で生命を堂々と生きよ。
3) <個>を鍛え<個>を深め<個>に生きる。
4) 自分…自我自己を含むすべて、人間存在の根源に立って自己を捉えた言葉。
5) 阿頼耶識をどう扱うかは、末那識にかかっている。
心王(八識三能変)表層と深層の絡み合い
i. 人間の<こころ>は、表層と深層が重層している。
ii. <こころ>は、表層から深層、深層から表層への2方向から捉える。
1) 表層→深層は、外の情報を受け入れていく受動的な一面。
2) 深層→表層は、深層が表層を支え動かしているという一面。
iii. 第一眼識~第五身識は、五感と呼ばれる感覚作用であり、一括して「前五識」と呼ばれる。
iv. 第六意識は、推理・判断・想像・洞察などの知的要素や、情緒、情操などの感情、意思意欲などすべての精神機能を含む広範囲な作用の<こころ>である。
v. 第七末那識は、潜在的な意識下の利己性、自己中心的な思い。
vi. 第八阿頼耶識は、過去を秘匿する潜在的な自己の深層。
vii. 一つのものを見たり聞いたりするときも、今日までの自分が総合的に働いている。
viii. 八識の<識>は<こころ>のこと。
ix. 使い分けは、識=了別(物事を区別している)、意=思量(いろいろに思いはかる)、心=積集(過去を集積し保持している)である。
x. 第一眼識~第六意識までを、<識>と呼ぶ。
xi. 第七末那識は、いつも利己的に思いはかるので、<意>と呼ぶ。
xii. 第八阿頼耶識は、過去を溜め込んでいるので<心>と呼ぶ。