無為自然。

してはいけないとこともないし、してはいけないこともないこともない。

無は有でないから無というなら、無は有でないという性質を帯びているから有である。

何もないという無を認識するには、有るという認識が必要である。有ることがないと言うことで無になる。いつまでたっても無は無にならない。

もし完全なる無が理解できれば、無為自然は理解できる。

内家拳には無極という思想がある。これはとても使える、フィードバック。

私には完全なる無という概念がある。理論と言ってもいい。

あるキリスト教の勉強会に参加した。

私は、キリスト教徒ではないが、いつものとおり思ったことを口にした。

無は神が作ったという言葉に対して、無とはなんですかとの問い。

無は無だとの答えであった。

無は無であるという時点で、無という概念で停止します。

無は相対性を帯びます。無を意識を持って説明すると、有があるから無があると言うことです。

絶対的な無は存在します。絶対性が身につくと、そこを基点にして存在できます。

これが、分かると、あらゆる事が無為自然になり、あらゆる不安が無くなり、毎日が楽しくて仕方が無くなり、いつ死んでも悔いが無くなり、思ったことが思ったとおりになり、健康も若さも「正常」な人間の年齢や寿命どおりになります。

無為自然。とても簡単で、単純です。

瞑想太極拳や、執筆活動、社会活動を通じて多くの人に無為自然への誘いをしていきたいと考えています。

実践と理論

私の場合は理論よりも先に、幼い頃からの実経験での問題解決からの弁証法的内観による発見が先でした。

その時にはまだ知らない唯識論に説かれている四分が自分の中で動いていました。気づきませんが。

あらゆる事が全て問題解決と再創造に転換したのは、30才の頃の母の死が決定的だったでしょう。

その後、弁証された理解をもっての実生活による実践が、あまりにも今までと違ったとても軽いというか、スムーズで不安のない、喜びあふれる世界に変化したため、それを多くの人に伝えたくなり、客観的な弁証として精力的に多くの思想家や政治家、精神科医や心理学者、宗教家、学者などと会って、持ち前の率直さをもって討論しました。半ば仕事のようにです。

その実証を本などを読み、全てに通じる普遍性を探り、自分が発見した理解を検証していきました。本の内容はすんなり入ってくると言うよりも、「そのとおり」という感覚が主でした。すでに理解していることを言葉として表現することに役立ちました。

唯識論や般若心経、形而上学、哲学、心理学、大脳生理学、太極拳論その他もろもろと私の経験による発見と普遍性の通じるところでした。

今は、理論は全て人間の存在のという本体からの作用と考えています。

多くの人の人間の存在の中にある本質を見つけ出すことを、普遍的な楽しみとして、見つけ出した人と共有し実社会に役立てていくことを出来るはずだと思っています。

人間は善悪を知る木の実を取って食べることで堕落した。

聖書からの抜粋です。
全くそのとおりです。この聖書の文言を否定するキリスト教系の新興宗教もあるようですが、この宗教も陥っているように、人間がこの善悪をはかるところから堕落したというのであれば間違い有りません。
しかし、堕落とはなんでしょうか?
何から堕落したのでしょうか?そうです。善悪などを知ることも、又はかることもない、無為自然な世界から堕落したのです。
善悪が生まれたときに、この世に神とサタンが生まれたと言っても過言ではありません。
神が生まれたと同時にサタンが生まれたのでしょう。
もともと、真理の世界には、そんなものはいません。聖書も実はそう言っているのです。